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マトリョーシカ

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 うつむき加減だったユリアは、その言葉にゆっくりと顔を上げ、淡い色の瞳でぼんやりとザイコフを見つめた。短い沈黙があり、それから小さくつぶやくのが聞こえた。
「そら涙を流してみせるほど、私は器用ではありません」
 確かにその通りだろう、とザイコフは思った。極端なほど感情表現の苦手なユリアに、演技であんなジェスチャーができるとも思えない。だが、裏切られたという思いが、彼女の言葉を素直に受け入れるのを頑なに拒絶していた。
「この期に及んでは、もう信じてはいただけませんか」
 黙ったまま硬い表情を崩さないザイコフの顔を見つめながら、ユリアは諦めるように言った。自分の中の葛藤を覗かれているような気がして、ザイコフはその視線を振り払うように腰を上げた。
「そろそろ行こう。外で車が待っている」
 だが、ユリアは椅子から立ち上がろうとはしなかった。それどころか、まるでザイコフが腰を上げたことさえ気付かないように、同じ一点をじぃっと見つめていた。その視線はザイコフの横をすり抜けて、彼の斜め後ろに注がれている。
 その先には、あの小さなマトリョーシカがあった。
「ガスパディーン…」
 吐息のようにユリアが言った。
「Я ненавижу Вашу страну.(私、あなたの国が嫌いです)」
 ザイコフは黙って聞いた。
「Но Вас, я любила.(でも、あなたのことは好きでした)」
 ユリアの視線は、マトリョーシカに注がれたまま動かなかった。ザイコフはそんなユリアの顔を眺め、それから人形に目を戻した。小さすぎてろくな装飾もない、粗末な木の人形。ザイコフは手を伸ばしてその人形を取り、手のひらでしばらく転がしてみた。
「…私が貰ってもいいかな、この人形」
 ザイコフが静かに尋ねると、ユリアはようやく人形から目を離してこちらを見た。そして次の瞬間…。ユリアの顔にうっすらと浮かび上がったのは、あの美しい微笑だった。
「そうしていただけると嬉しいです」
 もう一度見たいとあれほど望んでいた美しい微笑は、ゆらゆらと漂う蜃気楼のように、しだいに薄れて霧散していく。おそらく、二度と見ることは叶うまい。やりきれぬ思いにほんのしばらく目を伏せ、ザイコフは手の中の小さな人形を上着のポケットに滑り込ませた。
 今度は促しもせぬうちにユリアは椅子から立ち上がり、自分で上着をはおった。そして、散歩にでも出かけるような調子で言った。
「行きましょうか」

 アパートの外には、いかにもバーロシュ通りに不似合いな黒塗りのヴォルガが待っていた。二人が出て来ると、待機していた大使館付き武官ふたりがユリアを両側から挟むようにして車の方へ連れて行った。最後まで同行することを許されていないザイコフは、アパートの出入り口に立って、ユリアの後ろ姿を見送るほかない。
 ふたりの武官は、ユリアを後部座席のまん中に座らせると、自分たちもその両側に乗り込んでドアを閉めた。それを合図のように車はすぐにスタートし、ヨージェフ大通りにぶつかった所で左折して見えなくなった。おそらくユーローイ街道でもう一度左折して、フェリヘジ空港へと向かうのだ。ユリアの身柄は今夜のうちに、軍用機でモスクワに送られるに違いない。
 車が左折するまでの50メートル足らずの間、リヤウィンドウ越しにユリアの銀色の髪が見えていたが、最後まで彼女は振り返らなかった。たぶん例の完璧な無表情で、彫像のようにまっすぐ前を見ているのだろう、とザイコフは思った。

 ブダペストの冬の夜気は湿り気を帯びて、じわじわと身に滲みる冷たさだ。車の走り去った空っぽの通りに立ち尽くし、無意識にポケットに手を入れると、右手の凍えた指先に硬い小さな人形が触れた。
 これだけは本物です、とユリアは言った。こんなに小さくてみすぼらしいけれど、すべての嘘があばかれた後で、最後に残る真実です…。
 ユリア…!!!
 声に出さずにザイコフは叫んだ。私も君が好きだったよ。君に笑うことを教えてあげたかった。無表情の鎧の中から君を解放してあげたかった。そして、ごく個人的なレベルでなら、私は君の助けになれると思っていた。
 だが君は、たったひとりで一足飛びに国家のレベルにまで踏み込んでしまった。そこはもはや、まったく次元の違う世界だ。敵か味方かさえ単純に区別できる世界じゃない。現に君は、君が味方と信じたイギリスによって我々に売られた。そして私は…君の味方になりたかった私は、君を処罰の対象としてモスクワに引き渡さざるを得なくなった…。
 ユリアをモスクワに引き渡したことが間違いであったはずはない。彼女が企てを起こしてしまった以上、これが自分の果たすべき職務なのだ。だが、それでも。それでも苦い思いが込み上げてくる。ユリアが最後に残した『真実』は、あまりにもシンプルであまりにも純粋で、それだけにザイコフを苦しめた。
 ポケットの中の小さな人形を握りしめながらザイコフは目を閉じ、そのとてつもない苦さに、ただ耐えた。



「いつまでそこに突っ立ってるつもりだ」
 ふいに背後から聞こえてきた声に驚いて振り向くと、見覚えのある男の影が寒そうに首をすくめながら立っていた。
「…いつからそこに?」
「君らが出てきた時からさ。おかげでいい加減、寒くなってきた。そろそろ帰ろうぜ」
「…放っておいてくれないか」
「そうはいかん。おれは君が自宅に戻るまで監視しろと言われてるんだ」
「誰に?」
「想像はつくだろ」
 ミーシャはひょいと肩をすくめて見せた。参事官には参事官の人脈がある。
「とにかく乗れよ。送ってやるから」
 路上に止めてあったハンガリー製の小型乗用車をあごで示しながら、ミーシャが言った。
「そんなことをしていいのか? そもそも監視しろというのはこっそり後を尾けろという意味じゃないのか。私に声をかけたりしてよかったのか?」
「さあね。おれは監視しろとは言われたが、こっそりやれとは言われなかったな。とにかく君が自宅に入るのを見届けりゃいいんだ」
 そう言いながら、ミーシャは車のドアを開けると「早く来いよ」と怒鳴った。
 ザイコフはゆっくりと身体の向きをかえ、大人しく従った。

 車をスタートさせてしばらくは二人とも押し黙ったままだったが、みすぼらしいヨージェフ地区から美しく整備されたエルジェベート地区に入ったあたりで、ミーシャが口を開いた。
「君、この先少し苦労するかも知れないぞ…」
「…彼女、どうなるのかな」
 ミーシャの言葉を無視するように、ザイコフはぼそりとつぶやいた。
「まあ、良くてシベリア行きってとこだろうな」
 ミーシャは前方に注意を向けたまま、気のない返事をよこした。もっともミーシャの返事を聞くまでもなく、ユリアの行く末はザイコフにも明白だった。良くてシベリア、悪ければ…。
「女のことは忘れろよ。それよりも自分のことを考えた方がいいぞ、サーシャ。参事官はすっかり君を目の敵にしてるんだぜ」
「私は信に背くことはしていない」
作品名:マトリョーシカ 作家名:Angie