マトリョーシカ
ふと気がつくと、ユリアがぐったりとした様子で頭を窓枠にもたせかけ、握りしめた右手をみぞおちのあたりに押しあてていた。
「…ユリア?」
「大丈夫、軽い動悸です」
ユリアはそう言って微笑して見せたが、呼吸のたびに肩がわずかに上下している。
「無理をしない方がいい。横になりたまえ」
ザイコフはユリアの腕をとって静かに椅子から立たせ、ベッドに移動させた。そして彼女が身を横たえるのを待ってその上に毛布をかけてやり、自分はベッドの端に腰かけた。そうやって彼女の顔を見下ろしながら、静かに尋ねてみた。
「やはり、かなり悪いのかね?」
「どなたかに何か聞いて来られたのですね?」
ユリアはくすくすと笑った。ザイコフは少し罪悪感を感じて彼女の笑みから目をそらした。彼女が重病だと聞かされてから、ずっと気になっていたことがある。
「もしや君が体を壊したのは…」
「いいえ、違います」
ユリアはザイコフの質問をあっさりと先読みして遮った。
「これは母と同じ病気です。心筋症と言うのですが、母の担当医だったコンラード医師から家族性があることを指摘されていましたから、あの頃には予想していたことなのです。だからどうか、そんな顔をなさらないでください」
ザイコフが再びユリアの顔に目を戻すと、ユリアはにっこりとしてみせた。あのユリアが自分を気遣って笑ってみせるとは。本当に大した変わりようだ。
「…君には、もっと恨まれているかと思った」
ユリアはゆっくりと首を横に振った。
「あなたがそういう立場の人だということは、最初から分かっていましたもの」
そう言って弱々しく笑った後、ユリアはしばらくザイコフの顔を見つめ、それから目線を落とした。
「私、母が亡くなったらすぐにも行動を起こすつもりで、あらゆる準備をしていましたけれど、あなたのことだけはつくづく計算外でした。私を人並みに扱ってくださる方があらわれるなんて…。しかもそれがよりにもよってチェキストのロシア人だなんて…。いずれ敵対しなければならないと分かっていながら、それでも私は嬉しくて、…どうしようもなく嬉しくて、ついあなたには甘えてしまった…」
「君と敵対したくはなかったよ」
「そうですね。結局、裏切ったのは私の方です。あなたの方こそ怒っておられたのでは?」
「少しね…」
ザイコフはどんな顔をしていいのか分からず、仕方なく微笑して言った。
「だが君の気持ちが分からないでもなかった。私がもっと別の立場の人間だったら、あるいは違う行動に出たかも知れない」
「あなたが別の立場の方だったら、お会いすることもなかったでしょう。結局そういう巡り合わせだったんです。仕方がありません」
それは、ずいぶん前にザイコフ自身がたどり着いた結論と同じだった。そういう巡り合わせだったのだ。彼女には彼女の長い間の思いがあり、自分には自分の選んだ職務があった。そして、それだからこそあの場で出会い、あのような結果に終わったのだ。あれは仕方のないことだった。そう考えることでようやく自らに折り合いをつけ、あの苦い思いを振り切って今日まで仕事を続けてきたのだ。
「…そうだな……」
しばらく考えた後で、ザイコフは頷いて言った。たぶんそれが正しい結論なのだろう。ユリアの答えを聞いて、改めてそう思うことができた。
「母の経過を考えれば、私もいつまで生きられるか分かりませんが、願わくば、時代の流れがどこへ行き着くのか、ぜひ見届けたいものです」
再び窓の方へ目をやりながらユリアは言い、それから白い手を伸ばしてそっとザイコフの右手に重ねた。指先がひやりと冷たかった。
「できることならもう一度あなたにお会いしたいと思っていたら、そのあなたが訪ねて来て下さいました。願えば叶うというのは本当なのかも知れません。それなら世界がどう変わるのかも、きっと私は見届けることができるでしょう。少しそんな気がしてきました」
「それは良かった…」
ユリアがまた笑顔を見せたので、ザイコフは少し楽観的な気分になった。なにしろ彼女が微笑むと奇跡が起こるのだ。石の彫刻に生命が宿るほどの奇跡が。彼女がこれからも生き続けてくれると、単純に信じてもいいような気がした。
「では、事態が落ち着いてさっきの質問の答えを見つけたら、私は必ずまた君に会いに来る。どうかそれまで待っていてくれたまえ」
ザイコフは少し力をこめてユリアの冷たい手を握り返し、そう言いながら腰をあげた。ユリアは窓から目線を戻し、淡色の瞳でザイコフを見上げた。
「ええ、楽しみに待っています」
続いて一瞬、迷っているような顔をした後、ちょっと言いにくそうに声を小さくして続けた。
「来てくださってありがとう、サーシャ。お会いできて、とても嬉しかったです」
ザイコフの顔にまず驚きの表情が浮かび、やがてそれは微笑に変わった。その笑みは水面に広がる波紋のように、ゆっくりと時間をかけて満面の笑みになった。何故だかとても嬉しかった。
「来た甲斐があったよ」ザイコフはそう言って頷き、身をかがめてユリアの額にそっとくちづけをした。
「大事にしたまえ」
けれども、ザイコフが再びユリアを訪れることは、ついになかった。