春を待つ頃
昨日プラス2℃まで上がった気温が、今日はまた氷点下に逆戻りした。明るい時間は日に日に長くなっていくのに、冬はいつまでも去りがたそうに街の上に居座り続ける。ひょっとしたら春は来ないのではないかという気がしてくる。
それがモスクワの3月の常だ。
サーシャがふいに訪ねてきたのは、夜も更けた頃だった。
「すまないねミーシャ、夜分に押しかけて」
彼はそう言って、左手で透明なボトルを持ち上げて見せた。
「手土産だ」
「よく俺がモスクワに戻ってることが分かったな」
俺が驚いて言うと、サーシャはニヤリと笑ってウィンクした。まったく伝手の多い男である。
「仕事明けで疲れているだろうが、少しぐらい付き合ってくれるだろう?」
だが、そう言ったサーシャの方が、ひどく疲れているように見えた。俺は彼にソファをすすめ、冷蔵庫から塩漬けのキュウリを取り出した。ジーナは何かつまむものを作ろうかと言ったが、サーシャが首を横に振った。
「いいんだよ、ジーナ。もう遅いし、構わないでくれたまえ」
相変わらずの穏やかな微笑、柔らかな口調。けれどもその言葉には、ジーナにいて欲しくないというニュアンスが感じられた。ジーナにもそれが分かったのだろう。俺が先に休むようにと言うと、彼女は素直に従った。以前は会話に加わりたがったものだが、俺たちの話題はジーナに聞かせてよい性質のものばかりではない。席をはずせと言われたら、異議を唱えても始まらないと悟ったらしい。
KGB将校の妻であるということに、彼女もだいぶ慣れたようだ。
ジーナが寝室に引っ込んでしまうと、俺はキュウリの皿と小ぶりのグラスふたつを持って、サーシャの向かいに腰を下ろした。
「どうした? 二日ぐらい寝てないって顔だぜ」
「うーん…」
あいまいな返事をしながら、サーシャはちらりと天井を見上げ、それから俺の方に問いかけるような目を向けた。俺はゆっくりと首を横に振った。
「電話以外は大丈夫だ。長く留守にした後は、必ずチェックしてる」
サーシャは軽く2〜3度うなずくと、それでも声を低くして言った。
「ストックホルムの事件は耳に入っているか?」
「誰か亡命したそうだな。詳しくは知らんが」
「リーガル(合法情報官)の中佐だよ。ここ数日、その被害評価に関わっていたんだ」
「そうか。そいつは大変な作業だな」
「ああ。さすがにめげてる」
サーシャは背もたれに身を預け、ひとつ大きく息を吐いた。そうとう疲れているらしい。
「帰って眠った方がいいんじゃないか?」
俺がそう言うと、サーシャは苦笑し、自嘲気味に言った。
「帰ると余計に疲れそうだ」
「相変わらず、嫁さんとうまくいってないのか?」
諦めたような顔で、サーシャは首を横に振る。上司の伝手で半ば強制的に押し付けられた嫁さんでは、無理からぬことかも知れないが、私生活がそれでは気の休まる暇もあるまい。
「まったく苦労だな…」
俺はひとつため息をつき、それからサーシャが持ってきたストリチナヤの封を切って、ふたつのグラスに酒を満たしながら言った。
「まあ、俺のうちで良けりゃ、いつでも息抜きに来ればいい。もっとも、俺もあんまりモスクワにいないけどな」
「ありがとう。甘えちゃいけないとは思うんだが、でも、ミーシャ、今晩だけは勘弁してくれ」
いつになく弱音を吐くサーシャに、俺は驚いて顔をあげた。
「おい…本当に大丈夫か」
「…あまり大丈夫じゃない」
サーシャはそう言って弱々しく笑うと、一方のグラスをとって高く掲げた。
「イワン・フョードロヴィチの幸運を祈って」
彼はひとりで勝手に乾杯し、グラスの中身を一気にあおった。ずいぶんと投げやりなその様子に、俺はハタと気がついた。
「……その亡命者、ひょっとして知り合いだったのか?」
空のグラスがテーブルに置かれ、コツン、という音を立てた。
「私の上司だった男だ。北京で2年ばかり一緒に仕事をした。私のいきさつを知って、ひどく同情してくれてね。まあ…色々と…」
「…もしや、誘われたのか?」
サーシャはちらりと俺の顔を一瞥し、再び視線をグラスに向けた。
「断ったよ」と、ため息まじりに彼は言った。「本気だとは思わなかった」
「どういう意味だ」
思わず大声で怒鳴りたくなるのを、俺は必死で抑えなくてはならなかった。
「本気だったなら、誘いに乗れば良かったとでも言うつもりか?」
重苦しい沈黙が流れた。その重さに耐えきれず、俺は自分のグラスをあおる。喉から胃へ、灼けつくような液体が滑り落ちていく。その痛みにも似た熱い感触の中で、俺は彼の胸中を思った。
ブダペストでの一件と、それに続く長い不遇。サーシャは何も言わないが、その傷口が未だに癒えていないことを、俺はよく知っている。彼がこの国を捨てる事を真剣に考えたとして、何の不思議があるだろう? 俺にはそれを責める筋合いはない。
ただ、もし彼が今そのことを考えているのなら、俺はそんな話を聞きたくはなかった。
重い沈黙は続く。
俺は黙ってボトルを取り上げ、互いのグラスに二杯目のストリチナヤを注ぐ。グラスが透明な液体で満たされていくのを、サーシャは黙って見つめていたが、やがてだしぬけにこう言った。
「…マツユキソウを売ってたんだ」
俺はボトルを手にしたまま、動きを止めて彼を見る。サーシャは目を上げると、俺の顔を見て静かに微笑んだ。
「今日の昼間、所用で街に出たら、花売りがマツユキソウを売っていた」
「……それで?」
「それを見て思ったんだ。それでも春は巡って来るんだな、とね」
冬はいつまでも去りがたそうに街の上に居座り続ける。ひょっとしたら春は二度と来ないのではないかという気さえしてくる。だが、それでも。それでも冬はいつか終わり、必ず春はやってくる。それがいつなのかは、分からないけれど。
ゆっくりとボトルをテーブルに置いて、俺は応える。
「当たり前だ。いつまでも冬が続くもんか」
「そうだな。私もそう思うよ」
サーシャはつぶやくように言った。
「そして、春はやはり祖国で迎えたいと思う」
俺に向かって話しているというよりは、自分の迷いと混乱の中から、確信の持てる何かをすくい出そうとしているようだった。
俺は何度か頷いてから、グラスを高く掲げる。
「いつか訪れる春を思って」
「春を思って」
俺たちは乾杯し、今度は一緒にグラスを空けた。
それがモスクワの3月の常だ。
サーシャがふいに訪ねてきたのは、夜も更けた頃だった。
「すまないねミーシャ、夜分に押しかけて」
彼はそう言って、左手で透明なボトルを持ち上げて見せた。
「手土産だ」
「よく俺がモスクワに戻ってることが分かったな」
俺が驚いて言うと、サーシャはニヤリと笑ってウィンクした。まったく伝手の多い男である。
「仕事明けで疲れているだろうが、少しぐらい付き合ってくれるだろう?」
だが、そう言ったサーシャの方が、ひどく疲れているように見えた。俺は彼にソファをすすめ、冷蔵庫から塩漬けのキュウリを取り出した。ジーナは何かつまむものを作ろうかと言ったが、サーシャが首を横に振った。
「いいんだよ、ジーナ。もう遅いし、構わないでくれたまえ」
相変わらずの穏やかな微笑、柔らかな口調。けれどもその言葉には、ジーナにいて欲しくないというニュアンスが感じられた。ジーナにもそれが分かったのだろう。俺が先に休むようにと言うと、彼女は素直に従った。以前は会話に加わりたがったものだが、俺たちの話題はジーナに聞かせてよい性質のものばかりではない。席をはずせと言われたら、異議を唱えても始まらないと悟ったらしい。
KGB将校の妻であるということに、彼女もだいぶ慣れたようだ。
ジーナが寝室に引っ込んでしまうと、俺はキュウリの皿と小ぶりのグラスふたつを持って、サーシャの向かいに腰を下ろした。
「どうした? 二日ぐらい寝てないって顔だぜ」
「うーん…」
あいまいな返事をしながら、サーシャはちらりと天井を見上げ、それから俺の方に問いかけるような目を向けた。俺はゆっくりと首を横に振った。
「電話以外は大丈夫だ。長く留守にした後は、必ずチェックしてる」
サーシャは軽く2〜3度うなずくと、それでも声を低くして言った。
「ストックホルムの事件は耳に入っているか?」
「誰か亡命したそうだな。詳しくは知らんが」
「リーガル(合法情報官)の中佐だよ。ここ数日、その被害評価に関わっていたんだ」
「そうか。そいつは大変な作業だな」
「ああ。さすがにめげてる」
サーシャは背もたれに身を預け、ひとつ大きく息を吐いた。そうとう疲れているらしい。
「帰って眠った方がいいんじゃないか?」
俺がそう言うと、サーシャは苦笑し、自嘲気味に言った。
「帰ると余計に疲れそうだ」
「相変わらず、嫁さんとうまくいってないのか?」
諦めたような顔で、サーシャは首を横に振る。上司の伝手で半ば強制的に押し付けられた嫁さんでは、無理からぬことかも知れないが、私生活がそれでは気の休まる暇もあるまい。
「まったく苦労だな…」
俺はひとつため息をつき、それからサーシャが持ってきたストリチナヤの封を切って、ふたつのグラスに酒を満たしながら言った。
「まあ、俺のうちで良けりゃ、いつでも息抜きに来ればいい。もっとも、俺もあんまりモスクワにいないけどな」
「ありがとう。甘えちゃいけないとは思うんだが、でも、ミーシャ、今晩だけは勘弁してくれ」
いつになく弱音を吐くサーシャに、俺は驚いて顔をあげた。
「おい…本当に大丈夫か」
「…あまり大丈夫じゃない」
サーシャはそう言って弱々しく笑うと、一方のグラスをとって高く掲げた。
「イワン・フョードロヴィチの幸運を祈って」
彼はひとりで勝手に乾杯し、グラスの中身を一気にあおった。ずいぶんと投げやりなその様子に、俺はハタと気がついた。
「……その亡命者、ひょっとして知り合いだったのか?」
空のグラスがテーブルに置かれ、コツン、という音を立てた。
「私の上司だった男だ。北京で2年ばかり一緒に仕事をした。私のいきさつを知って、ひどく同情してくれてね。まあ…色々と…」
「…もしや、誘われたのか?」
サーシャはちらりと俺の顔を一瞥し、再び視線をグラスに向けた。
「断ったよ」と、ため息まじりに彼は言った。「本気だとは思わなかった」
「どういう意味だ」
思わず大声で怒鳴りたくなるのを、俺は必死で抑えなくてはならなかった。
「本気だったなら、誘いに乗れば良かったとでも言うつもりか?」
重苦しい沈黙が流れた。その重さに耐えきれず、俺は自分のグラスをあおる。喉から胃へ、灼けつくような液体が滑り落ちていく。その痛みにも似た熱い感触の中で、俺は彼の胸中を思った。
ブダペストでの一件と、それに続く長い不遇。サーシャは何も言わないが、その傷口が未だに癒えていないことを、俺はよく知っている。彼がこの国を捨てる事を真剣に考えたとして、何の不思議があるだろう? 俺にはそれを責める筋合いはない。
ただ、もし彼が今そのことを考えているのなら、俺はそんな話を聞きたくはなかった。
重い沈黙は続く。
俺は黙ってボトルを取り上げ、互いのグラスに二杯目のストリチナヤを注ぐ。グラスが透明な液体で満たされていくのを、サーシャは黙って見つめていたが、やがてだしぬけにこう言った。
「…マツユキソウを売ってたんだ」
俺はボトルを手にしたまま、動きを止めて彼を見る。サーシャは目を上げると、俺の顔を見て静かに微笑んだ。
「今日の昼間、所用で街に出たら、花売りがマツユキソウを売っていた」
「……それで?」
「それを見て思ったんだ。それでも春は巡って来るんだな、とね」
冬はいつまでも去りがたそうに街の上に居座り続ける。ひょっとしたら春は二度と来ないのではないかという気さえしてくる。だが、それでも。それでも冬はいつか終わり、必ず春はやってくる。それがいつなのかは、分からないけれど。
ゆっくりとボトルをテーブルに置いて、俺は応える。
「当たり前だ。いつまでも冬が続くもんか」
「そうだな。私もそう思うよ」
サーシャはつぶやくように言った。
「そして、春はやはり祖国で迎えたいと思う」
俺に向かって話しているというよりは、自分の迷いと混乱の中から、確信の持てる何かをすくい出そうとしているようだった。
俺は何度か頷いてから、グラスを高く掲げる。
「いつか訪れる春を思って」
「春を思って」
俺たちは乾杯し、今度は一緒にグラスを空けた。