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鏡の中の……

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また新しいビルができたらしい。
 オリンピックに湧く東京では、次から次に真新しいビルが林立している。そのうち空もなくなっちまうんじゃねえかって勢いだ。
 東京には空がない、なんて昔どっかの詩人が言ったらしいが、そいつが今の東京を見たらどう思うのかね。
 オレは四角く切り取られた空を見上げて、それからビルの全面をピカピカと彩る馬鹿でかいガラスに目をやった。
「っ!?」
 そのでかいガラスに一瞬映ったのは、素っ裸の男。男にしちゃ長いざんばら髪に必死の形相でこちらを見ていた。
 一瞬幽霊ってやつかと思ったが、確認しようとしたらその姿は掻き消えていた。
 見間違い……?
 それにしたって何であんなもの。
 オレは首を捻りながら、ビルの前を離れた。
 次にその男を見たのは、雀荘のトイレでだ。
 凄まじい形相でこちらを睨む男……いや、睨んでいるというよりは何か悲壮な覚悟を決めていたと言った方がいいかもしれない。こちらを見ているようで何か違うものを見ていた。映ったのは一瞬のことで、がしゃん、と向こう側の鏡が割れ、それきり何も見えなくなった。
 はっと気が付いた時には、もう鏡はごく普通の顔をしてオレを映していた。
 先ほどこちらを見つめていたのは、あの裸だった男だ。
 一瞬しか見ていないが間違いない。
 その日からオレは、気にして鏡を見るようになった。だが、なかなかおかしなものが映ることはなかった。
 久しぶりに奴を見たのは、肩を切られて入院した病院で、生活も退屈になったある日のことだ。
 目があった。男の頬には派手な傷が残っていた。
「なんで!? え?」
 声が聞こえた。男がおかしな顔をして鏡に押し当てた右手には、指を切り落としたような傷。
 ……声が聞こえるのか。
「あんた、その傷どうしたんだ?」
 ちょいちょいと右手を指さしてやると、男はぎょっとしたような顔で飛び退り、こちらと周囲を交互に見比べる。
「なんで……鏡……だろ……だ、誰……なんで……違う奴が映って……」
「そいつはオレも知りたいな」
 もう少し話をしてみたかったが、傷の男が意を決して近づいて来ようとした瞬間、鏡に映っていたのはただのオレの顔になった。
「ふむ……」
 軽く鏡面を叩いたり、ふちを覗いてみたが、とくにおかしな仕掛けは見当たらない。
 大体、以前見たときはビルのガラスで、雀荘のトイレで、今は病院の洗面所だ。そんなところに仕掛けをする意味が分からないし、関連性もなさそうだ。
 オレの頭がおかしくなったとでも考えた方がよっぽど納得がいく。
 我知らず笑いが漏れた。
 オレはいつの間にかイカれちまったのかもしれない。それならそれで面白い。どうせなら、もっとだ。もっとおかしくなれ。
 ところが、一概にオレの頭がおかしくなったというわけでもないらしい、と判明したのは、それからほとんど間をおかず、稲田組に厄介になっている時だった。
 思いがけず、また傷の男と顔を見合わせることになったのだ。二度目だからか、傷の男も、初めてオレを認識した時ほどには慄いていなかった。
「……で、お前何者なんだ?」
「オレは赤木しげる、あんたは?」
「……伊藤、開司」
「カイジさん、ね」
 オレの問いかけに応えながら、カイジさんは難しい顔で鏡をつついたり、撫でたりしている。どうにかして触れられないかと思って、カイジさんの指が押し付けられた鏡面に触れてみたが、ガラスのつるつるとした質感があるばかりで、温もりも感じなかった。
「……わけわかんねえな」
 カイジさんも早々に投げ出すように言った。
 なんとなくだが、テレビだのといったものにしちゃやたらに画面がきれいすぎるし、カイジさんの反応もすぐに返ってくるのもおかしい。
「そっちはどこなんだ?」
「え? あ……と、東京?」
「東京の、どこ?」
 カイジさんに詳しい場所を聞いたらそこで時間切れだ。
 翌日散歩をしてみたが、カイジさんが言う場所には建物なんてなく空き地があるだけだった。
 全くもって意味が分からねえ。
 散歩から戻ってきて鏡を覗くと、またカイジさんが居た。
「あんた、何者なんだ?」
「それ、オレも聞きてえよ……」
 カイジさんは太い眉を困ってるみたいにくしゃっと曲げて笑った。
「変なのな、こんな信じられないことが起きてるのに、普通にオレたちは話してるのが面白い」
「そうだな」
 それからオレたちは鏡越しに話をした。
 話ができるようになると、なんとなく会いたいと思った時は会えた。
 カイジさんが言った場所に建物なんて見つけられなかったこと。カイジさんに傷痕ができたわけ、オレが今稲田組に厄介になっている理由。カイジさんが今までやってきたギャンブル、オレの境遇、ただだらだらととりとめもなく話した。
 カイジさんにそんな話をする気になったのは、どうせ実際会うことはないという気安さみたいなものからなのかもしれない。それにカイジさんがやってきたギャンブルっていうのも大概むちゃくちゃでおおいに興味をそそられた。
 オレの話を聞いたカイジさんがコロコロと表情を変えるのも面白かった。カイジさんの話は大体涙と共に語られた。
 涙を拭ってやりたくとも、鏡の向こうにオレの手は届かない。
 稲田組に厄介になっている間、カイジさんと話すのはオレの数少ない楽しみの一つになった。


「おい、赤木。いよいよ来週だ。来週、向かう」

 安岡さんから告げられたのは二十四日のこと。
 いよいよ鷲巣と卓を囲めるのだ。
 すっと冷たい炎に焼かれるような高揚があった。
 オレは早速その話をカイジさんにも聞かせた。
 カイジさんは眉を顰めて「死ぬなよ」と重々しく言った。
 それから三十一日までの間、オレの意識は鷲巣に向かい、カイジさんのことはほとんど思い出しもしなかった。


 鷲巣との勝負を終え、オレは朦朧とする意識の中、洗面所に立った。
 さすがに血を失いすぎたらしい。
 死にそうでも喉は渇くし、水を飲めばションベンも出る。
 オレは命などいらないつもりで臨んだのに、身体の方は最期まで生きようとするのが滑稽に思えた。
 鏡を見れば我ながら土気色のひでえ顔だった。
 そのオレの顔が驚愕に彩られる。
 いや、違った。カイジさんだ。
「お前、どうした!? まさか死んじまったのか!?」
「あいにくと生きてるよ」
 ずいぶん久しぶりにカイジさんに会えた気がする。
 立っているのも億劫で、寄り掛かるようにして鏡を覗き込む。
「ひでえ顔色してるじゃねえか、病院行った方がいいんじゃねえか?」
「ここがその病院だ」
「そうか、よかった」
 カイジさんはほっとした様子で胸を撫で下ろす。
「……で、ちょい前に話してた怪物爺さんには勝ったのか」
「あぁ、勝ったよ」
「そっか。やったな、おい!」
 自分の話でもないのに、カイジさんは自分のことのように喜んだ。
 オレが勝ったからって、一銭の得にもなりやしないのになんだか面白かった。
「ははっ」
 思わず笑うと、頭がくらっとした。
 無理もない。いくら事前に輸血してるとはいえ、致死量に近い血液は抜かれている。オレは今完全な貧血状態にあるんだ。
「……」
 鏡にくっつけたままのオレの額にカイジさんが手を添える。
作品名:鏡の中の…… 作家名:千夏