君のためなら
「 おやすみなさい 」
『わかりました。先方に伝えておきます。その件についての返答は明日中にいただくようにします。それでは失礼します』
送信ボタンから指を離し、やっと仕事が終わった、と息をついて携帯電話の液晶を画面を折る。パタンと閉じる音共に目の前のドアが左右に開いて、目的地へたどり着いたから降りろといわんばかりに口を開けた。
「……降りないのか?」
声がする。その声が自分に向けられたものだとは思わなくて、その人物に気がつくのに少々時間を要した。
「あ、降ります。ありがとうございます」
一目で綺麗だと思うほど容姿端麗な人がこちらを見ていた。質問に対して何とか返事をして、エレベータを降りた。歩みを進めながら、憂鬱な気持ちと戦った。帰ってきてしまった。嫌だなあ。暗いし。冷えてる感じがするし。嫌だなあ。エレベータホールからはそう遠くない部屋だから、少しの考えごとの間にたどり着いてしまった。バッグを開けて鍵を取り出す。それを手に握りこんで、一つ息をつく。カチャリと音がして、顔をあげる。ドアが開いたのだと思ったから。しかし、目の前のドアは何も変わっていない。当然だ、まだ触れてもいないのだ。では、なぜ? 何気なく右を向く。
「……同じ階なんだな」
開いたドアは隣だった。そしてその前に立っているのは、菊が降りるまで、エレベータでドアを開けて待っていてくれた人だった。ほっとして答える。
「お隣さんでしたか。先ほどは、ありがとうございました」
「いや、別に。他の階のボタン押してなかったから聞いただけで」
「ぼうっとしていたので助かりましたよ。それでは、おやすみなさい」
「……おやすみ、なさい」
鍵を開けて、ドアを開けて、隣人に会釈をして中へ入った。
今日もよく働いた。なんていう感慨は薄れた。ライフワークになってしまえばそれは当たり前のことだから。星のない黒い空を見上げ歩く。
マンションのエントランスにたどり着こうというとき、バタンと音がした。誰かが車を乗り付けたらしい、さあと車が去っていくようだから、タクシーだろうか。いいなあ。電車ではなく車で、それも自分ではない人の運転で、楽に帰ってきたいなあ。
ポストを確認していると、後ろから誰かが来た。新聞やメールを回収してエレベータに向かうときに、その人とすれ違った。
「こんばんは」
「ああ、……そっか」
挨拶をしたはずだが、帰ってきたのは何か確認するような言葉だった。不思議に思ったが、彼は日本人ではないようだからと気にしないことにした。エレベータは待機していたが、なんとなく、同じ階で隣なのだし、と彼が来るのを待つ。
「……悪いな」
エレベータは目の前にいるのに、乗り込まずに待っていたせいか、ずいぶん驚いたらしい。驚いて、口ごもって、決まりが悪そうに言った。
「いえ、同じ階ですし」
微笑んでみせると、ふいと顔を逸らしてしまった。あ、せっかくの綺麗なお顔が見えなくなってしまった。無意識にそう思ったことに気がつかず、人見知りをする方なのでしょうかと考えた。
「どうした?」
「い、いえ。お気になさらず」
ドアを前にして、バッグの中を弄る。困った。
「鍵か?」
「ええ。バッグの中で迷子みたいです」
苦笑いをする。気にしないでください、すぐに見つかりますから。そう言っても気になるようで彼は動かなかった。いつものことですから。おやすみなさい。そう告げてやっと諦めて家へ入ってくれた。パタンとドアが閉じられたのを見届けてから、誰にともなく笑いかけた。
今まで隣にどんな人が住んでるかなんて知らなかった。そんな関係なのに、不思議なこともあるものだ。二日も連続して会社帰りの時間が同じになるなんて。今までこんなこと、一度もなかったのに。さすがに三日目はないだろう。
今日はいくつか届き物があるはず、と緩みそうになる顔を抑えながらポストを開けた。予定通りに四角いポストの空洞に収まった包みを見て、抑えられずに微笑んだ。喜びに疲れが消えたのがわかった。新聞とメールと包みを胸に抱えてエレベータに向かおうと方向転換する。
「今日も同じですね」
「そうだな」
目が合った瞬間に逸らされて、少しだけ寂しい気持ちになった。
先日と同じように、隣人の彼を待ってから共にエレベータに乗り込んだ。
「ありがと、な」
「いえいえ」
「……なにかあったのか?」
「え?」
「嬉しそうな顔、してるから」
それを聞いて驚いた。こうやってエレベータに乗ることは嫌ではないようで、昨日だって、鍵が見つかるかどうか心配してくれたような気がする。けれど、人見知りらしい彼はあまり顔を合わせようとしない。それなのに、私の顔を見なければわからないことを、今彼は言った。
「え、はい? そうですか?」
「ち、違うならいい。ちょっとそんな気がしただけだから」
背の高いその人は、見上げても目線は合わない。
「いえ、ありましたよ。待っていた物が今日届いたのです。だから嬉しくて」
「そ、か」
人見知りなのかもしれない。けれど、それでも彼は優しいのだと気がついた。わけなく嬉しくて、また笑みがこみ上げてきた。
「鍵、探しとけよ」
「あ、はい。そうですね」
言われたとおりにバッグに手を入れる。決まった場所に収めているそれはすぐに確認できた。昨日だって本当はなくしていない。それを思うと、彼の優しさに申しわけなく思う。
「ちゃんとありました」
「決めた場所に入れておけばどうだ?」
「ああ! そうですね」
今気がついた。そんなふうにして言うと、呆れたのか、またふいと外へ視線をやってしまった。
そうこうしてる間に7階にたどり着いた。いつも彼は私を先に降ろしてくれる。無理のない自然なそれはとても紳士的に思う。だから余計に、きっと彼は優しいのだと思える。
ドアノブに手を掛けると、丁度よく携帯が震えた。手を放して、携帯を手にする。上司からだった。
「お疲れ様です。本田です」
話を聞きながら、ふと隣を見た。目が合うと、彼はドアを指差した。中に入って話さないのか? そう言ってる気がする。ええ、もう夜ですし、非常識なのはわかってます、けど、ええ、まだ入りません。そう返事したいのをそっと隠して、笑顔を作る。おやすみなさいと会釈をすれば、彼はこの場を去るしかできない。彼を吸い込み終わったドアが閉まる。
おやすみなさい。
to be continued.