君のためなら
「 こんにちは 」
このマンションにエレベータは二台ある。タイミングがずれたらしく、玄関で鍵を開けようとしていると、後ろから話し声が聞こえた。声の主は隣人のもの。だいぶ聞きなれたそれは、きんきんと高くない、どちらかというと低めの、静かで落ち着いた耳に心地よい声、だった。
『今から行っていい?』
「今からですか?」
『下にいるんだぞ。帰れって言われても困るよ』
「困るのは私です! あなたは休みかもしれませんが、私は明日も仕事なんですよ」
『だから、菊の邪魔はしないってば。ちょっとゲームしたいだけだから。それでアイスでもくれたら最高だよね。って今どこにいるんだい? 早く開けてくれよ』
ああそうだった、忘れていた。オートロックだから簡単には入れないのだ。電話の主はここまで来てるというし、追い返すのも可哀相かと諦める。「もう少しで着くので待っててくださいね」と伝えて通信を切る。
「こんばんは」
「お、あ、おう」
「最近一緒になりますねぇ」
「そうだな」
「ちょっと前までこんなことなかったのに」
楽しそうに笑っている。何が楽しいのだろう。
「職場のローテーションで部署が変わったんだ。だから時間も変わった」
「そうでしたか。遅くなったのですか?」
「いや、早くなった。まぁ、その代わり土曜に半日出るんだけど」
彼女の握っていた携帯が震えた。画面に表示された名前を見て慌てた。
「あ、では私これで。おやすみなさい。せっかく早くなったんですし、今までの分もゆっくり休んでくださいね」
パタンとドアが閉じるのを見送った。先に着いたのはアーサーなのに、部屋に入ったのは彼女が先ということが、なんだか新鮮だった。
あ、誰かいる。
アーサーと同じような金色の髪の毛で背の高い人が彼女の玄関先に佇んでいた。自分より背が高いことに、少しだけ負けた気になっていると、目が合った。空を映したような青い瞳の上に、眼鏡をかけたそいつは、無垢な笑顔を作った。
は?
「菊! 遅いんだぞ!」
「すみません」
菊と呼ばれた人は隣人だった。近所のスーパーの袋を提げている。
「あ、こんばんは」
「よお」
「菊、お腹すいたんだぞ! 早く作ってくれよ」
「また、そんなの飲んでるんですか? ファストフードは控えなさいって言ったでしょう」
「菊のご飯は入るよ! だからいいだろう?」
「そういう問題じゃないです」
いつもと雰囲気の違う彼女を見て、先日感じた新鮮さをもう一度感じた。
「おやすみなさい」
きちんと挨拶をしてくれる。そのときに見せる笑顔は好きだったけれど、これではない違う笑顔が見たいと思った。
夕食は適当に済ませる。食べたいものは特にないし、生命が維持できればそれでいいと思っているから、こだわりがないのだ。シャワーを浴びて、ビールを開けながらTVを見た。
カタン。小さく音がして、何気なく部屋を見渡す。何かが変わった様子はない。
隣かな――
“また閉め忘れたのかい?”
ドアが閉まる瞬間に背の高い男が言っていたことが蘇った。何かが引っかかった。何か見逃してる気がする。なんだろう?
また閉め忘れた、と言った。それは、以前にもあったということを示唆していうものだ。また。また、何を、忘れた? 何を? ドアに閉めるといえば、“鍵”。
ずきりと胸が痛んだ。昨日のあいつを思い出せ。少しだけ玄関先で会話をして、その後、部屋に入っていったあいつは、――鍵を開けていなかった。それなのに、中に入っていったのだ。アーサーは思い返した。菊と出会ってからの帰宅の様子を。彼女はいつも気さくに話しかけてくれた。嫌ではなかった。日本にいる西洋人だからというだけで受ける、下心の見え透いた言葉でも笑顔でもなくて、その自然さは好ましいものだった。だからアーサーも気兼ねなく答えていた。ふ、と気がついた。先日感じた新鮮さは、アーサーより菊のほうが先に家の中に入ったからだと。ドアを開けて入るその様子を、新鮮だと感じたのだ。それもそのはず、菊と出会って、初めて見たのだから。いつもアーサーが先に部屋に入っていた。
アーサーは知ることになる。青い目をした男が言った“また”は、違うということを。それは、“いつも”なのだということを。
アーサーはソファにもたれかかっていた姿勢を崩し、身体をずり落としていった。
――どうして、気がつかなかったのだろう――
「よう」
今日はエントランスで出会った。挨拶をしてから、気になったことを聞いてみることにする。
「あのさ、昨日のは?」
「昨日? アルフレッドさんでしょうか」
「恋人だぞ!」
無邪気な声が後ろから飛んできた。それに反応して菊が叫んだ。
「ちょっとアルフレッドさん! そういうことを言わないでください!」
「そのうち本当になるんだぞ。照れなくてもいいよ!」
「照れてません! あのっ、違いますからね。お気になさらず!」
「あ、うん」
「どうやって入ってきたんですか、あなたは!」
「どうって、さっきの人について入ったんだ」
「きちんと連絡をくださいって言ってるでしょう。あんまりこういうことしてると、今に通報されますよ」
「迎えに来てくれるんだろう? その時は」
「知りませんよ、私は」
わあわあと言い合いを始めた二人は、見様によっては「仲睦まじい恋人どうし」のそれだ。疎外感を感じながら見守りつつ、アーサーと菊とアルフレッドは部屋まで帰った。
そっか。そうだよな。真面目そうだし、ちょっと明るすぎるくらいのやつが丁度いいんだろうな。俺じゃ、力不足――――って何考えてるんだ。
to be continued.