君のためなら
「 さようなら 」
『えー、今からかい?』
「いいじゃないですか。いつもは押しかけてくるんですから、たまには私にも付き合ってくださいよ」
『それは嬉しいんだけど、俺にだって用事はあるんだぞ』
「そんなのお構いなしの癖に」
『じゃあレポート一つ手伝ってくれるかい? 本を読んで要約してくれるだけでいいからさ』
「それは、ずるじゃないですか」
『交換条件だよ。どうする?』
「……わかりました。手伝います」
『ああっ! 菊、ごめん! 忘れてた! バイト行かなきゃ間に合わない! じゃあねっ』
ツーツーと無機質な音が聞こえる電話機を握り締めて唖然としていると、マンションのエントランスで隣人さんと出会ってしまった。気まずい。先日突き放してしまったことが、気にかかる。
「……こんばんは」
「ああ」
お互いにポストから紙束を取り出して、エレベータに乗ってる間中それを眺めていた。けれどまともに読めた文章が一つでもあっただろうか。
「あの、煮物を作りすぎてしまったのです。あとでお持ちしても、」
「いや、いい」
切って捨てるように吐かれた言葉に聞こえた。もう関わるなと、話しかけてくるなと、そういうことなのだろうか。
寂しさが湧き上がってきた。
苦手な家を目の前にして、二人から接触を断られてしまった。
こんなことなら、会社での友人を捕まえて、ご飯を食べに出るんだった。
昨日の今日では、まだ心細さが心の内を漂っている。
私は、ひとり――
「ふえ」
「……は!? なんで泣くんだ!?」
「ふええ」
涙が零れてくる。人前で泣くことは苦手なはず。人に感情をさらけ出すのは苦手なはず。抑えようと思うけれど、上手くいかなくて、溢れてくる涙は止まらない。
「悪かった! 嫌いなわけじゃないんだ、びっくりしただけだから! なあ、泣くなよっ」
肩に触れようとしてくれた手を引っ込めて、菊を先導するアーサーは、少し迷って、自分の部屋に通す。
ぽろぽろと頬を濡らし続ける菊をソファに座らせて、キッチンへ向かう。
気分が落ち着くようにと、ミルクティを作る。甘味料に三温糖を選ぶ。こくが増すはずだ。
「本田、悪かった。落ち着いたらこれ飲むといい」
ソファの前のテーブルにソーサーを置くと、すぐに手を伸ばそうとする。
「まだ熱いぞ」
手を引っ込めて、涙を拭った。
気を紛らわせようと、話を振る。けれど、選んだ題材は三流のそれだった。あるいは自分の首を絞めるか。
「あいつとは、どういう関係なんだ?」
「え?」
「あ、いや。前にも聞いたのはわかってる。その、仲が良さそうだったから、気になって」
「さあ、よくわからないんですよねぇこれが」
目を赤くしたまま、困ったように笑った。
よかった。答えはあんまりよくないけど、笑ってくれた。
「あえて言うなら、友人でしょうか。先生と教え子では、もうありませんしね」
聞きたかった答えを、本田の口から聞くことができた。鼓動が硬く打った。
「そ、そうか。付き合い長いんだな」
「はい。遊ばれてるだけな気がしますけどね」
……あんまり突っ込まない方がいいのだろうか。いや、けど本田の調子はきっとそのままを言ってるだけなのだろう。そう思いたい。遊ぶって言うのは、つまり、きっと遊んでるだけなんだよな。うん。
「そろそろ飲めると思う」
「あ、はい。いただきます」
最初に振舞ったときと同じように、泣いた目元は消えないけれど、表情を明るくして笑った。
「おいしいです。この前に頂いたのより、もっとおいしいです」
「違いが、わかるのか? 好きなのか、紅茶」
「はっきりとはわからないですけど、私が淹れるよりおいしいことはわかります」
ふわりと微笑む。
あー、天然って恐い。
「――聞いても、いいか?」
きっと彼女の深いところにあるものだから、興味だけで触れていいものじゃない。断りやすいように、軽く訊ねてみる。
何を訊ねたいのか気がついた本田は、一瞬止まった動作をごまかすように、カップに口をつけた。
「話すと、長くなりますよ。それに、楽しい話じゃないです」
「本田が話すなら、俺は聞く」
「……いつかも言った気がしますけど、あなたずるいです」
ずるいは言われた記憶ないなあ。卑怯は言われたけど。
「面倒で、暗い話しですよ?」
「最後まで聞く」
視線がぶれないようまっすぐに見つめて言うと、ちらりと遣した視線とぶつかった。諦めたように息をついた。
「恐いんです。誰の目にも映らない部屋に帰るのが」
本田が話しだした。目は合わない。顔を伏せて、どうしたらいいのか分からないと、小さな声で、けれど叫んでいた。
言葉に重みがあって、きっとこれでも選んでいるだろうから、もっと悲しい想いを抱えているのかと思ったら堪らず、手を握ってしまった。
「カークランドさん?」
「言わせて、ごめん。話してくれて、ありがとう」
上げかけた瞳をまた伏せて、小さく言った。
「いえ、こちらこそ、要領の得ない話を聞いてくださって、ありがとうございます。私はこれで失礼します」
立ち上がろうとする本田を押さえつける。といっても握りこんだ手を放さないだけで済んだのだけど。
「あ、の、手を」
「一緒にいたいと思うんだ」
「え? はい?」
やっと見つめ返してくる瞳には動揺が浮かんでいる。
「最初に惹かれたのは笑顔だ。俺に向けたいって思った」
そういうと頬を染めた。瞳が揺れた。
「声と、それから、物腰のやわらかさも好きだ」
あとたぶん、君は。
「強い、ところも」
口をきゅっと結んでいる。黒い瞳だと思ったけど、ダークブラウンの虹彩を持っていたと知る。
「全部、俺が守りたいって思った」
あなたが私を気にしていてくれたら、なんて夢を見た気がする。
これは、その続き?
恋人は? あなたはきれいな人だもの、どなたかいらっしゃるでしょう?
国が違うじゃないですか。あなたは日本語が堪能だけれど、私はあなたの国を何も知らない。
私でいいの? あなたには釣り合わない。
暗い。自分でもわかるくらいに面倒。きれいでも、可愛くもない。あなたの言う強さに自覚がない。
「な、何を言って、」
「本田が好きだ」
繰り返されるまっすぐな言葉が、菊の心に浸透していく。
耐えていた涙がじわりと込み上げてくる。涙の向こうでアーサーが揺れている。
一度手を放したから、もう次はないと思った。けれどすでに強く惹かれていた。だから悲しかった。自分で選んだことだけど、突き放してしまったことが苦しかった。
私もあなたの笑顔が好き。はにかむような、不器用な笑顔に、なぜだか救われた。家に入る瞬間に、脳裏に焼き付けたあなたを思い出せば、恐さを紛らわすことができた。
好き。好きです。一緒にいてくれるのなら、あなたに尽くしたい。私でいいといってくださるなら、私はあなたに助けられたい。
あなたの手を、取ってもいいですか。
「わ、たしも、好き、です」
ついに零れる涙を、アーサーは指で拭う。また泣いてしまった。ほら、困ったように笑ってる。そんな顔をさせたいわけじゃないのに。