君のためなら
「 ありがとう 」
嗚呼。やっぱり、嫌だ。恐い。
少しくらい、慣れてもいいのに。
今までもこうしてやってきた。だから大丈夫。恐くない。平気よ――
思い込もうとするのを阻むように、思い出す。冷たい記憶。
菊の底で、たゆたうそれは、熱を奪い冷やしていく。
寒い。
寒くて、震える。
……嗚呼、もしかしたら。
恐がることに、慣れてしまったのかもしれない。
ドアを前にして佇んでいる人、それが誰かすぐにわかる。鍵を握りしめ、決意したようにノブに手を掛けて、けれどその手を外し、ため息をついた。下を向いたまま体を反転させてドアに背を預ける。顔をあげる。
「……悪い。見てた」
「趣味悪いですよ」
「そう思う。けど、怯えてるみたいな、泣きそうな顔をいつもしてるんだ。気にするなって方が無理だろ」
「元からです、この顔は。特徴のない、寂しい顔でしょう。放っておいてください」
そんなことない。ちゃんと笑えるときもあるじゃないか。
言いたいのに、彼女にとってアーサーが“他人”という位置が邪魔をした。
「“いや”だって言った」
「誰がです」
「お前が。この間、ここで倒れてたとき、俺運び入れただろ? そのときドアを開けたら、お前が言った。意識なかっただろ。それでも家に入るのを嫌がった。なんでだ?」
「……そんなことを持ち出して聞くなんて、卑怯だと思いませんか」
「思うよ」
「卑怯です」
「そうしてるから、当然だろ」
「開き直らないでください」
どうして恐いのか。そんなこと、もうずいぶん長い間考えていない。考えたところで、記憶は変わらないし、植えつけられた恐怖だってもう拭えないだろう。一生怯えながら、これを抱えて、上手に付き合う方法を探しながら生きていくのだ。いままでがそうだったように、これからもそう。大丈夫。耐えることはできる。私は、できる。まだ、一人で生きていける。
だからこの震えを早く、止めなければいけない。
本田に近づく。背中をドアに押し付けて、小さく震わせている肩に手を伸ばせば、跳ねた肩を抑えるようにして抱きかかえ、深く俯く。
部屋に入ったことがある。特に変わったものがあるわけではなかったし、本田を怯えさせるなにかがあるとも思えなかった。
「泣いてるだけじゃわからないだろ」
「泣いてなんかいません」
「じゃあ顔上げてみせろよ」
「嫌です。あなたには関係ないでしょう」
「……ないな。確かに」
唇を噛む。そうすることでしか、零れそうになる嗚咽を止められない。
嗚呼、私はまた拒むのですか。なんて弱いの。
でも。だって。
この助けが恐い。この手に縋ってしまったら、もしも、あなたが私から去ってしまったとき、私はどうやって立ち直ればいいの?
助けようとしてくれてありがとう。――さようなら。
離れていく温もりが、ドアが閉まる音と共に消失した。
『この家に生まれて、なんでこんな暗いのかね』
『間違って拾ってきたんじゃない』
『成績だけは取ってくるんだね。まったくこれで相殺されるとでも思ってるんだろうか』
『何考えてるか分からなくて気味が悪い』
『しゃべらないし、なんか企んでても恐いから、外に出さない方が――』
『あんたのご飯これでいいね』
暗い。寒い。与えられたのは、誰かのお古のパジャマと布団だけ。食事は一日二回。たまに一回減る。
家族に気味が悪いと罵られ、中学に上がるまで家の中のどこかに幽閉されていた。その時間は途方もなく長くて、一人、寂しかった。寝ても起きても、今がどんな時間なのか、外がどんな様子なのかわからず、ただただ時間を消費した。このまま誰にも知られずに消えてしまうのかもしれない。いつか読んだお姫様のように、泡になるのかもしれない。せめて月に帰れたら、まだ生きていられるだろうか。
光を奪われた部屋は、寒い。体の震えが、いったいどこから来るものなのかわからず、布団の上で毛布に包まっていた。
けれどここまで育ててくれたことには感謝をしたいと思った。だから、中学に上がって、必死に勉強をした。なにかで返さなければと思ったからだ。けれど、それも裏目に出たようで、それだけ勉強ができれば一人で生きていけるだろうと、家を出された。アルバイトで学費を稼ぎながらの通学は、悲しみを紛らわすのに丁度よかった。そうして、今まで生きてきた。大学は高校よりも楽だった。奨学金で進学し、勉学に励んだ。人並みの時間を過ごすようになって、友達もできた。
ただ、家に帰るのはいつまでも恐かった。それが自分しかいない、アパートの一室だとしても、同じことだった。“家に帰る”という行為そのものに、菊は恐怖を植えつけられたのだ。
家に入れば、世間と隔離されてしまう。それが恐い。人に忘れられる。誰の目にも触れない私は一人。名前を呼ばれない私は孤独。
一人は嫌。
せっかく人に会ってきたのに、せっかくの仕事が終わってしまった。
せっかく世間と繋がっていたのに、家に、帰ってしまう。
一人に、なってしまう。
to be continued.