クルイウタ
歌よみは下手こそよけれあめつちの動き出してたまるものかは
「俺は今度の二十六日に死ぬんだ。その前に一杯やらないか?」
そんな連絡が入ったのは月の初めのことだった。
どこからかけてきたのかもわからない電話は、言いたいことだけ言うとすぐに切れ、俺の反論なぞ一切聞いちゃくれなかった。
俺は必死に赤木の行方を探させ、清寛寺に辿りついたのが7日のこと。
死ぬとなりゃ坊主の手配ぐらいするだろう。少し考えりゃわかりそうなもんだが、俺は認めたくなかったんだな。
あいつが死の間際に頼る先が自分の他にあるってことを。
俺は万障をかなぐり捨てるようにして、翌日には岩手にいた。
「よう」
いつもと同じ、あんな電話などなかったかのように縁側で手を上げた赤木は、まるで陽だまりに微睡む猫だった。
どういうことなのかと、金光に事情を聴く。
自分では説得しきれなかった。スマンが頼む。あんたが頼りだ。金光は赤木に見えない場所で俺に縋り付いて泣いた。
俺は途方に暮れた。
赤木が決めたことだというのなら、俺に何ができるだろう。
あいつは自分が決めたことをけして忽せにはしない。それが俺からの働きかけであったとしてもだ。俺はあいつのそういうところに惚れこんでもいたし、憧れてもいた。
あいつが他人の懇願など聞き入れはしないということは、誰よりも俺が一番知っている。
その日の夜は物も言わずに並んで盃を傾けた。
空には今にも消え入りそうな細い月がかかっていた。
月が終わるのだ。
翌日の月のない夜も、赤木はただ空を眺めてグラスを傾ける。
聞けば、もうろくに左目が見えないのだという。
アルツハイマーを患い、日ごとに自分が欠けていくのが手に取るようだと、赤木は淡々と語った。
「歳は取りたくねえな。ションベンの切れが悪くなるぐらいならともかく、手牌の切れまで悪くなりやがる」
「抜かせ、俺より若い癖しやがって」
だから死ぬのだ、と言われれば納得はできないが理解はできた。
思い返せばいつだって理外に生きてきた赤木のことだ。
己の生死も、俺たちの嘆きも、赤木の戦略の外にある。
上弦の月が空にかかる頃、ふと赤木が聞いてきた。
「そういやヤー公。しのぎはどうした」
これがアルツハイマーの残酷なところなのだと、赤木は言う。譫妄や意識混濁は常に起きているわけではなく、正気にあることも多いのだと。
少しづつ自分を食い荒らされてる気分だと、赤木は笑った。
「残り少ない連れの命にぐらい寄り添わせろや」
「てめえはいつも余計なもんを抱え込んで重そうだもんな。たまには荷を投げ出しても罰は当たるめえさ」
「は、一番の重荷が何抜かす」
あぁ、たまらねえだろうな。
あれだけの才気に走った男が、自分を失っていく。それはどれほどの恐怖なのだろう。
俺にはわからない。
どうせなら、いっぺんに正気を失っちまったなら、俺も金光も赤木を留め置くことができただろう。
赤木はきっと許してはくれないだろうが。
金光は、赤木を死なせる支度をしながら、最後まで赤木を生きさせようと足掻いていた。
毎日のようにぼろ寺の電話が鳴る。
赤木の生きた後始末にまつわる電話だ。
急に坊主がやってきて、赤木が借りたもんだと金を置いていくのだから、一体赤木はどうしたんだと疑問に思うのも無理はない。
金光は方々に走り回り、赤木の借金を清算するための金を工面するのは大ごとだと、泣きながら笑っていた。
あの業突く張りの坊主がだ。
貸したつもりじゃなかったと、受け取らないものも多いのがせめてもの救いよ、と金光は笑う。
わかっているのかいないのか、赤木は金光の報告を受ける度、そうか、としか答えなかった。
正気じゃない時の赤木は日がな一日ぼうっとしていた。
なるほど、その挙動は年寄りのそれだ。
そんな赤木の姿はまるで時が止まっているかのようだった。暴れるでなし、騒ぐでなし、赤木にはどうやら俺たちが知る以外の部分はまったくもってないらしい。
書き割りの裏が張りぼてであるように、赤木の赤木でない部分は無なのだった。
日一日と月は満ちていく。
新聞広告に金光が赤木の通夜の告知を出した。
その日は朝からじゃんじゃん電話が鳴り響いた。
あまりにうるさいので赤木が不機嫌になったほどだ。
皆、お前を惜しんでいるのだというと、くくく、と赤木は笑った。
楽しいといってはおかしいかもしれないが、葬儀の支度は存外楽しかった。花を選び、棺を選び、祭壇の様子を考える。
酒はふんだんに。通夜振る舞いはどうするか。
そんな話をしている間にも、通夜にも葬儀にも出られない人間からの香典が届いた。驚いたことに届く香典、届く香典、どれもがやたらに分厚かった。
多すぎる香典は失礼だというのはわかっているが、と但し書きのついたそれらは、こうでもしなければ気持ちの行き場がないのだと、どうか香典返しには気を遣わず菩提を弔ってほしいと結ばれていた。
これでもまだ死ぬのかと、金光は赤木に迫ったが赤木は黙って笑っているだけだった。
通夜には前日から手伝うことはないかとやってくる者たちもいた。
金光は赤木にへそを曲げられて、予定を早められては困ると、上手いこと理由を付けてそれらの者たちをよそに泊まらせた。
「なぁ、赤木。何故明日なんだ?」
縁側から見た月は満ち、眩しいくらいだ。
「そりゃ、お前。おめえと最後にこの月を見たかったからよ」
赤木は空を見上げて、眩しそうに目を細めた。
「この世をば、我が世とぞ思ふ。望月の欠けたることもなしと思えば……これだけ月が綺麗でおめえが隣にいて、充分だ。なぁ、おい」
赤木の白い髪が月の光に照り映える。
「あぁ、綺麗だ。綺麗だな」
何故だかひどく泣きたくなった。月が眩しすぎるせいだろう。
「なぁ、沢田……」
「ん?」
「月が綺麗ですね」
「アホか」
赤木はくくくと喉を鳴らして笑った。赤木の手の中の盃に映った月も揺れていた。
翌日の早朝、俺は東京へと戻ることにした。
「何だ、俺の骨は拾っちゃくれないのかい?」
今日の赤木は調子がいいらしい。最期の日に結構なことだ。
「そいつは俺の役目じゃねえよ」
「そうか。骨に集まるのは悪鬼どもだ。おめえは悪鬼っていうには優しすぎらぁ」
別れはあっさりとしたものだった。
俺は迎えに回させた車に乗り込み、空を見上げた。
青い空には白い月がかかっていた。
月みてもさらにかなしくなかりけり世界の人の秋と思えば
悲しいのは俺だけじゃない。
三千世界のすべてがお前を失うことを嘆くだろう。
だが、喉も裂けるほどに泣きわめき縋りついたとしたって、お前の意思は変わらないのだろう?
だから、俺はここを立ち去るのだ。
なぁ、赤木。お前がそれほどまでに才気に溢れていなければ、もう少し手の届く位置にいれば、お前はその道を選ばなかったのだろうか。
俺はこれほどまでにお前の才能を憎んだことはないよ。
お前がお前でなかったのなら、もう少し生きることも考えてくれたか?
それから、俺は赤木の墓参りにも行っていない。
俺の中での赤木はあの日の朝、別れた時のままだ。
「俺は今度の二十六日に死ぬんだ。その前に一杯やらないか?」
そんな連絡が入ったのは月の初めのことだった。
どこからかけてきたのかもわからない電話は、言いたいことだけ言うとすぐに切れ、俺の反論なぞ一切聞いちゃくれなかった。
俺は必死に赤木の行方を探させ、清寛寺に辿りついたのが7日のこと。
死ぬとなりゃ坊主の手配ぐらいするだろう。少し考えりゃわかりそうなもんだが、俺は認めたくなかったんだな。
あいつが死の間際に頼る先が自分の他にあるってことを。
俺は万障をかなぐり捨てるようにして、翌日には岩手にいた。
「よう」
いつもと同じ、あんな電話などなかったかのように縁側で手を上げた赤木は、まるで陽だまりに微睡む猫だった。
どういうことなのかと、金光に事情を聴く。
自分では説得しきれなかった。スマンが頼む。あんたが頼りだ。金光は赤木に見えない場所で俺に縋り付いて泣いた。
俺は途方に暮れた。
赤木が決めたことだというのなら、俺に何ができるだろう。
あいつは自分が決めたことをけして忽せにはしない。それが俺からの働きかけであったとしてもだ。俺はあいつのそういうところに惚れこんでもいたし、憧れてもいた。
あいつが他人の懇願など聞き入れはしないということは、誰よりも俺が一番知っている。
その日の夜は物も言わずに並んで盃を傾けた。
空には今にも消え入りそうな細い月がかかっていた。
月が終わるのだ。
翌日の月のない夜も、赤木はただ空を眺めてグラスを傾ける。
聞けば、もうろくに左目が見えないのだという。
アルツハイマーを患い、日ごとに自分が欠けていくのが手に取るようだと、赤木は淡々と語った。
「歳は取りたくねえな。ションベンの切れが悪くなるぐらいならともかく、手牌の切れまで悪くなりやがる」
「抜かせ、俺より若い癖しやがって」
だから死ぬのだ、と言われれば納得はできないが理解はできた。
思い返せばいつだって理外に生きてきた赤木のことだ。
己の生死も、俺たちの嘆きも、赤木の戦略の外にある。
上弦の月が空にかかる頃、ふと赤木が聞いてきた。
「そういやヤー公。しのぎはどうした」
これがアルツハイマーの残酷なところなのだと、赤木は言う。譫妄や意識混濁は常に起きているわけではなく、正気にあることも多いのだと。
少しづつ自分を食い荒らされてる気分だと、赤木は笑った。
「残り少ない連れの命にぐらい寄り添わせろや」
「てめえはいつも余計なもんを抱え込んで重そうだもんな。たまには荷を投げ出しても罰は当たるめえさ」
「は、一番の重荷が何抜かす」
あぁ、たまらねえだろうな。
あれだけの才気に走った男が、自分を失っていく。それはどれほどの恐怖なのだろう。
俺にはわからない。
どうせなら、いっぺんに正気を失っちまったなら、俺も金光も赤木を留め置くことができただろう。
赤木はきっと許してはくれないだろうが。
金光は、赤木を死なせる支度をしながら、最後まで赤木を生きさせようと足掻いていた。
毎日のようにぼろ寺の電話が鳴る。
赤木の生きた後始末にまつわる電話だ。
急に坊主がやってきて、赤木が借りたもんだと金を置いていくのだから、一体赤木はどうしたんだと疑問に思うのも無理はない。
金光は方々に走り回り、赤木の借金を清算するための金を工面するのは大ごとだと、泣きながら笑っていた。
あの業突く張りの坊主がだ。
貸したつもりじゃなかったと、受け取らないものも多いのがせめてもの救いよ、と金光は笑う。
わかっているのかいないのか、赤木は金光の報告を受ける度、そうか、としか答えなかった。
正気じゃない時の赤木は日がな一日ぼうっとしていた。
なるほど、その挙動は年寄りのそれだ。
そんな赤木の姿はまるで時が止まっているかのようだった。暴れるでなし、騒ぐでなし、赤木にはどうやら俺たちが知る以外の部分はまったくもってないらしい。
書き割りの裏が張りぼてであるように、赤木の赤木でない部分は無なのだった。
日一日と月は満ちていく。
新聞広告に金光が赤木の通夜の告知を出した。
その日は朝からじゃんじゃん電話が鳴り響いた。
あまりにうるさいので赤木が不機嫌になったほどだ。
皆、お前を惜しんでいるのだというと、くくく、と赤木は笑った。
楽しいといってはおかしいかもしれないが、葬儀の支度は存外楽しかった。花を選び、棺を選び、祭壇の様子を考える。
酒はふんだんに。通夜振る舞いはどうするか。
そんな話をしている間にも、通夜にも葬儀にも出られない人間からの香典が届いた。驚いたことに届く香典、届く香典、どれもがやたらに分厚かった。
多すぎる香典は失礼だというのはわかっているが、と但し書きのついたそれらは、こうでもしなければ気持ちの行き場がないのだと、どうか香典返しには気を遣わず菩提を弔ってほしいと結ばれていた。
これでもまだ死ぬのかと、金光は赤木に迫ったが赤木は黙って笑っているだけだった。
通夜には前日から手伝うことはないかとやってくる者たちもいた。
金光は赤木にへそを曲げられて、予定を早められては困ると、上手いこと理由を付けてそれらの者たちをよそに泊まらせた。
「なぁ、赤木。何故明日なんだ?」
縁側から見た月は満ち、眩しいくらいだ。
「そりゃ、お前。おめえと最後にこの月を見たかったからよ」
赤木は空を見上げて、眩しそうに目を細めた。
「この世をば、我が世とぞ思ふ。望月の欠けたることもなしと思えば……これだけ月が綺麗でおめえが隣にいて、充分だ。なぁ、おい」
赤木の白い髪が月の光に照り映える。
「あぁ、綺麗だ。綺麗だな」
何故だかひどく泣きたくなった。月が眩しすぎるせいだろう。
「なぁ、沢田……」
「ん?」
「月が綺麗ですね」
「アホか」
赤木はくくくと喉を鳴らして笑った。赤木の手の中の盃に映った月も揺れていた。
翌日の早朝、俺は東京へと戻ることにした。
「何だ、俺の骨は拾っちゃくれないのかい?」
今日の赤木は調子がいいらしい。最期の日に結構なことだ。
「そいつは俺の役目じゃねえよ」
「そうか。骨に集まるのは悪鬼どもだ。おめえは悪鬼っていうには優しすぎらぁ」
別れはあっさりとしたものだった。
俺は迎えに回させた車に乗り込み、空を見上げた。
青い空には白い月がかかっていた。
月みてもさらにかなしくなかりけり世界の人の秋と思えば
悲しいのは俺だけじゃない。
三千世界のすべてがお前を失うことを嘆くだろう。
だが、喉も裂けるほどに泣きわめき縋りついたとしたって、お前の意思は変わらないのだろう?
だから、俺はここを立ち去るのだ。
なぁ、赤木。お前がそれほどまでに才気に溢れていなければ、もう少し手の届く位置にいれば、お前はその道を選ばなかったのだろうか。
俺はこれほどまでにお前の才能を憎んだことはないよ。
お前がお前でなかったのなら、もう少し生きることも考えてくれたか?
それから、俺は赤木の墓参りにも行っていない。
俺の中での赤木はあの日の朝、別れた時のままだ。