村上と一条の話
適当な店に入ると、一条主任は「ありがとう」と頭を下げてきた。
「なんですか? お礼を言われるようなことなんて……」
驚く俺に一条主任は頭を下げたまま言った。
「村上さんが俺を上司として扱ってくれたおかげで、空気が変わったのは俺にもよくわかりました。だから……」
小さくなる一条主任は年下らしくて、オレは柄にもなく焦った。
「や、やめてくれ。俺だって働きやすい方がいいし、上司が侮られてるとかやりにくいし……あの、主任上司なんだし、敬語じゃなくていいデスよ……?」
噛み噛みになる俺に、一条主任は顔を上げると爆弾を落とした。
「……それと、すみませんでした」
「は? すみません……?」
「実は、ずっとストーカーだと思っていて……あ、いえ、一緒に働いているうちに誤解は解けたんですけど、なんとなくバツが悪かったというか」
言いにくそうな一条主任から発せられた聞き慣れない単語に、俺の顔は疑問符だらけになっていたことだと思う。
ストーカー、ってなんだっけ。
「ティッシュはくれるし、俺の職場には遊びに来るし……挙句の果てには帝愛に就職してるし……何でこの人は俺に付きまとうんだろう、って」
あー、まぁ、俺が決まってた内定蹴って帝愛に入ったのは、一条さんがきっかけだから、ストーカーっていうのもあながち間違いじゃないよな、とは思ったけど、やましい気持ちじゃない。
これだけ整った顔をしていればそういう目にもあったことがあるのかもしれない。
きつく当たってる奴にもちょっと気持ち悪い奴とかいたしな。
「……あぁ、それは」
何というべきかを迷って、俺は一条主任に正直に自分の気持ちを告げた。
「あんたの傍にいたら、きっと面白いものが見られると思った、それだけなんだ。あの泣いてた時、このままにしておくものか、みたいな顔してただろ。余裕こいてた他人が吠え面かいてんの、高みの見物してるのが好きなんですよ」
一条主任はちょっと驚いた顔をして、それから笑った。
「……それなら。いい趣味をしていますね。どうも俺とは気が合いそうだ」
「でしょう? ですから、どうぞ部下として存分に使ってください。上司にはエラそうにしてもらってた方が、俺も立ち回りしやすいかな」
俺が部下らしく頭を下げると、一条主任は少しばかり尊大に胸を張った。
「仕方ねえな、面白いものを見せてやろうじゃねえか」
なんだか楽しそうだった。
「しかし、覚えていただいていたとは思いませんでした」
「恩も恨みも忘れない方なんだ」
くくく、と一条主任が笑う。恩も、恨みも、ね。それは非常に楽しみだ。
「これから一条主任についていきますんで、楽しませてください」
俺たちは昼下がりのファミレスで、がっちりと握手を交わした。
ある日俺は一条主任に呼び出された。
俺は何となく一条主任に主任の辞令が出た日のことを思い出していた。
そういえば、あの後手のひらを返しただけの連中はことごとくえらい目に合っていたっけ。
一条主任が言った、恩も恨みも忘れない、という言葉には全くもって偽りはなかった。やっぱり思った通り、俺は特等席で実に素敵な出し物を楽しむことができた。
心を入れ替えたならともかく、手のひらを返しただけで許されると思ってる方が悪い。
一条主任は椅子に深く腰掛け、もうすっかり板についた尊大な態度で俺に微笑んできた。
「今度、俺が店長に就任する。それで、主任は村上に頼もうと思ってるんだ」
いわゆる内々示ってやつは耳ざとい奴なら結構知ってるもんで、俺はいつだったかの一条主任……もう店長って呼んでも構わないだろう、店長と同じく羨望の眼差しにさらされている。
上手いことゴマ擦りやがって、運よく派閥競争に乗ったな、あいつ。
そういうくだらない呪詛は当事者の耳にだってよく入ってくる。
だが、お前たちには一生わかるまい。
俺は昔っから店長に乗っかってきたんだ。
これは運なんかじゃねーんだよ。