Blessing
ふ、と何かの感覚を感じて、意識が浮上した。
さわり、と少しだけ冷えた手で額を僅かに撫でられたような。
風がそっと触れていくだけのような、それ。
薄く目を開ける。
目に映る景色はいつもと同じだ。
冷たい石造りの、何もない部屋。
音もなく、気配もなく、ただ静謐な動かない空気の中にある。
石造りの椅子に身体を預け、その何もない空間を一瞥すると、彼はゆっくりとまた目を閉じた。
気のせいだろうか。
何処かから水の音がする。
そして気配も。
けれど、何だと思うより早く、意識は溶け込むように闇に沈んだ。
窓の外で鳴いていた蝉の音がうるさいな、と。
折角のお休みなんだからもう少し寝かせておいて欲しい、と寝返りを打った所で、すぅっとその音が遠くなった。
朝から気温は上がり続け、ベッドに転がっていられるのもあと少しかなと思っていたのに、す、とその暑さも和らいでいく。
・・・ああ、また降りて来ちゃったんだな。
慣れた空気に、遊戯は微睡んでいた意識をほんの少しだけ上昇させた。薄く目を開ければ、いつもの自分の部屋の壁ではなく、自然の色合いをした見慣れた石の壁。
僅かにひんやりとした空気が心地良い。
ここはいつも静かだ。
ごく自然に自分の部屋とは違う事を受け入れて、それでも慣れた空気に安堵しきって遊戯はそっと目を閉じた。
煩いくらいに存在を主張していた蝉の音もこの静かな空気の中にはない。
別に夏の暑さも、蝉の音も、嫌いな訳ではないけれど、まだ惰眠を貪っていたい時にあの大音量と気温のWパンチは効く。
しかも何がお気に召したのかは判らないが、2,3日前から部屋の窓のすぐ脇の壁に陣取った蝉が一匹。
初日の居場所は風を通すために開けられた窓の網戸だった。いつもより1時間以上も早くに直撃をくらって叩き飛び起きるハメになり、もう一人の遊戯に目覚ましはいらなかったな、と笑われた。
微睡みの中に漂いながら、ゆっくりと口元に笑みを引く。
あともう少し。
もう少ししたら、起きてもう一人の遊戯の所へ行こう。
もしかしたら降りてきてしまった事に気付いているかもしれないが、もしも眠ってたらもう一度一緒に寝てしまおう。起きてたら、一緒に心の部屋で遊ぶのも良い。それで、気が向いたら何処かへ行こうか。
買い物でもいいし、ただの散歩でもいい。
ああ、城之内くんがバイトは今日お休みだって言ってたから、もしかしたら城之内くんが遊びに来てくれるかもしれない。ああ、そうしたら、何をして遊ぼう――――?
ヒタリ
・・・・・・?
ふわふわと水の中を漂うような、そんな眠りの淵で、小さな音を聞いたような気がした。
なんだろう。
微かな音。
聞いた事がある。
それはとても自然に辺りに溢れる音でもあって。
だから逆にすぐには何の音なのか判らなかった。
・・・なんだろう。
でも、きっとすごく身近なもので、
不意に、その音に思い当たった。
そうしてそれを認識したと同時に、遊戯はかつてない程の勢いで身体を起こした。
眠気なんて一気に吹き飛んでしまった。
そうだ。
これは物凄く身近な音ではあるけれど。
ここ、で、聞くのなんて、絶対におかしい――――!
「な・・・ッ」
まず、飛び込んできたものに、遊戯は言葉を失い、次いで思わず叫んだ。
「何コレー!?」
「うーわー・・・」
水だ。
確かにさっきのは水の音だった。
目覚めた遊戯の目の前に広がった光景は、何とも言い難い光景だった。
普段色んなもので溢れている心の部屋は、ただいま水浸しの様相を呈していた。
というか、あちこちで色んなモノが水に浮いたり沈んだりしている。
・・・なんだろう、これ。
確かこんなのと似たような状況をテレビで見た事がある。
「…ゆ、床上浸水だっけ…?」
呆然と、遊戯は呟いた。
そうだ。これは先日上陸していった台風の時にテレビで見た、アレだ。
水の嵩はそんなに高くない。今、ベッドに呆然と座り込んでいる遊戯の所にまでは届いていないので、精々高さは30㎝弱、といったところか。
いやいやいや、そんなことは今はどうでも良い。
今までこんな事はなかった。いつもここの空気は乾いていて、何処かから砂の匂いがする。
いつも、同じ。
「もう一人のボク…!」
遊戯は意を決して水の中に足を踏み入れた。
感触は普通の水と同じだ。同じようにまとわりついてきて、普通に歩くには少しばかり重い。
それでもなんとか部屋の中をそろりと進んで、もう一人の遊戯の部屋とを繋ぐ、心の回廊へ。
開け放たれたままの扉からそっと回廊の様子を窺っても、相変わらずぼんやりとした光が奥へと消える回廊にも、闇に呑まれた端へも変わらず水は溢れているようだった。
一歩回廊へ足を踏み出せば、目の前には真実の眼の刻まれた石の扉。
いつも静かなこの世界に、水を掻き分けて動く音だけが響く。
それが何かひどい違和感で。遊戯は自分を落ち着かせるために大きく息を継いだ。
「もう一人のボク? 入るよ!」
いつものように声だけかけて、扉に手を掛ける。
「相棒? ちょっとま」
「え?」
応えはすぐ返ってきた。しかし、たぶん、待てと続くはずだったんだろう言葉より早く、遊戯は扉を開けていた。
チャプ、と水音がこだまする。
・・・だけで、特に何も起こりはしなかった。
「…もう一人のボク?」
何か拙かったのかと思いながら、そっと扉から中を覗き込む。するとちょうど彼も部屋を出ようとしていたのか、すぐ扉の前にはもう一人の遊戯の姿が。
いつもと変わらないその様子に、遊戯は無意識にほっと一つ息を継いだ。
「・・・ごめん、ちょっと勢い付いちゃってて」
自分的にせーの、と勢い付けたようなものだったから、制止するには少し遅かった。
が、もう一人の遊戯は僅かに苦笑を浮かべて首を振った。
「ちょっとウトウトしていて、オレも気がついたのはさっきなんだ。…様子を見に行こうと思ったんだが、万一こっち側だけがこんな状態だったとしたら、扉を開けるのは拙いかなと思ってどうするか考えてたんだ」
ここで、と扉の内側を示す。
「こちらだけが浸水しているんだったら、下手に開けたら被害拡大させるだけと…」
「・・・・・・。」
「・・・相棒?」
「・・・考えてなかった」
「え?」
「早く様子見に行かなきゃ!ってそっちばっかり考えてて、全ッ然考えてなかったよ、それ…!」
本当に考えついていなかったのか、遊戯は呆然とした顔をしている。
互いに顔を見合わせての、ほんの短い間の沈黙の後、
「…くっ」
低く抑えた笑いが空気を震わせた。
さわり、と少しだけ冷えた手で額を僅かに撫でられたような。
風がそっと触れていくだけのような、それ。
薄く目を開ける。
目に映る景色はいつもと同じだ。
冷たい石造りの、何もない部屋。
音もなく、気配もなく、ただ静謐な動かない空気の中にある。
石造りの椅子に身体を預け、その何もない空間を一瞥すると、彼はゆっくりとまた目を閉じた。
気のせいだろうか。
何処かから水の音がする。
そして気配も。
けれど、何だと思うより早く、意識は溶け込むように闇に沈んだ。
窓の外で鳴いていた蝉の音がうるさいな、と。
折角のお休みなんだからもう少し寝かせておいて欲しい、と寝返りを打った所で、すぅっとその音が遠くなった。
朝から気温は上がり続け、ベッドに転がっていられるのもあと少しかなと思っていたのに、す、とその暑さも和らいでいく。
・・・ああ、また降りて来ちゃったんだな。
慣れた空気に、遊戯は微睡んでいた意識をほんの少しだけ上昇させた。薄く目を開ければ、いつもの自分の部屋の壁ではなく、自然の色合いをした見慣れた石の壁。
僅かにひんやりとした空気が心地良い。
ここはいつも静かだ。
ごく自然に自分の部屋とは違う事を受け入れて、それでも慣れた空気に安堵しきって遊戯はそっと目を閉じた。
煩いくらいに存在を主張していた蝉の音もこの静かな空気の中にはない。
別に夏の暑さも、蝉の音も、嫌いな訳ではないけれど、まだ惰眠を貪っていたい時にあの大音量と気温のWパンチは効く。
しかも何がお気に召したのかは判らないが、2,3日前から部屋の窓のすぐ脇の壁に陣取った蝉が一匹。
初日の居場所は風を通すために開けられた窓の網戸だった。いつもより1時間以上も早くに直撃をくらって叩き飛び起きるハメになり、もう一人の遊戯に目覚ましはいらなかったな、と笑われた。
微睡みの中に漂いながら、ゆっくりと口元に笑みを引く。
あともう少し。
もう少ししたら、起きてもう一人の遊戯の所へ行こう。
もしかしたら降りてきてしまった事に気付いているかもしれないが、もしも眠ってたらもう一度一緒に寝てしまおう。起きてたら、一緒に心の部屋で遊ぶのも良い。それで、気が向いたら何処かへ行こうか。
買い物でもいいし、ただの散歩でもいい。
ああ、城之内くんがバイトは今日お休みだって言ってたから、もしかしたら城之内くんが遊びに来てくれるかもしれない。ああ、そうしたら、何をして遊ぼう――――?
ヒタリ
・・・・・・?
ふわふわと水の中を漂うような、そんな眠りの淵で、小さな音を聞いたような気がした。
なんだろう。
微かな音。
聞いた事がある。
それはとても自然に辺りに溢れる音でもあって。
だから逆にすぐには何の音なのか判らなかった。
・・・なんだろう。
でも、きっとすごく身近なもので、
不意に、その音に思い当たった。
そうしてそれを認識したと同時に、遊戯はかつてない程の勢いで身体を起こした。
眠気なんて一気に吹き飛んでしまった。
そうだ。
これは物凄く身近な音ではあるけれど。
ここ、で、聞くのなんて、絶対におかしい――――!
「な・・・ッ」
まず、飛び込んできたものに、遊戯は言葉を失い、次いで思わず叫んだ。
「何コレー!?」
「うーわー・・・」
水だ。
確かにさっきのは水の音だった。
目覚めた遊戯の目の前に広がった光景は、何とも言い難い光景だった。
普段色んなもので溢れている心の部屋は、ただいま水浸しの様相を呈していた。
というか、あちこちで色んなモノが水に浮いたり沈んだりしている。
・・・なんだろう、これ。
確かこんなのと似たような状況をテレビで見た事がある。
「…ゆ、床上浸水だっけ…?」
呆然と、遊戯は呟いた。
そうだ。これは先日上陸していった台風の時にテレビで見た、アレだ。
水の嵩はそんなに高くない。今、ベッドに呆然と座り込んでいる遊戯の所にまでは届いていないので、精々高さは30㎝弱、といったところか。
いやいやいや、そんなことは今はどうでも良い。
今までこんな事はなかった。いつもここの空気は乾いていて、何処かから砂の匂いがする。
いつも、同じ。
「もう一人のボク…!」
遊戯は意を決して水の中に足を踏み入れた。
感触は普通の水と同じだ。同じようにまとわりついてきて、普通に歩くには少しばかり重い。
それでもなんとか部屋の中をそろりと進んで、もう一人の遊戯の部屋とを繋ぐ、心の回廊へ。
開け放たれたままの扉からそっと回廊の様子を窺っても、相変わらずぼんやりとした光が奥へと消える回廊にも、闇に呑まれた端へも変わらず水は溢れているようだった。
一歩回廊へ足を踏み出せば、目の前には真実の眼の刻まれた石の扉。
いつも静かなこの世界に、水を掻き分けて動く音だけが響く。
それが何かひどい違和感で。遊戯は自分を落ち着かせるために大きく息を継いだ。
「もう一人のボク? 入るよ!」
いつものように声だけかけて、扉に手を掛ける。
「相棒? ちょっとま」
「え?」
応えはすぐ返ってきた。しかし、たぶん、待てと続くはずだったんだろう言葉より早く、遊戯は扉を開けていた。
チャプ、と水音がこだまする。
・・・だけで、特に何も起こりはしなかった。
「…もう一人のボク?」
何か拙かったのかと思いながら、そっと扉から中を覗き込む。するとちょうど彼も部屋を出ようとしていたのか、すぐ扉の前にはもう一人の遊戯の姿が。
いつもと変わらないその様子に、遊戯は無意識にほっと一つ息を継いだ。
「・・・ごめん、ちょっと勢い付いちゃってて」
自分的にせーの、と勢い付けたようなものだったから、制止するには少し遅かった。
が、もう一人の遊戯は僅かに苦笑を浮かべて首を振った。
「ちょっとウトウトしていて、オレも気がついたのはさっきなんだ。…様子を見に行こうと思ったんだが、万一こっち側だけがこんな状態だったとしたら、扉を開けるのは拙いかなと思ってどうするか考えてたんだ」
ここで、と扉の内側を示す。
「こちらだけが浸水しているんだったら、下手に開けたら被害拡大させるだけと…」
「・・・・・・。」
「・・・相棒?」
「・・・考えてなかった」
「え?」
「早く様子見に行かなきゃ!ってそっちばっかり考えてて、全ッ然考えてなかったよ、それ…!」
本当に考えついていなかったのか、遊戯は呆然とした顔をしている。
互いに顔を見合わせての、ほんの短い間の沈黙の後、
「…くっ」
低く抑えた笑いが空気を震わせた。