Blessing
「・・・そんなに笑わなくてもいーじゃない」
「別に面白がってるわけじゃないんだけどな」
確かに思い返せば、ちょっと笑える呑気な会話の流れだったかもしれないが。お陰で遊戯はもう一人の遊戯に背を向けたまま、とことこと心の部屋を歩き回り、もう一人の遊戯はもう一人の遊戯で、機嫌を直してくれないか?と伺いながら、その後をついて回っている。
2人は先程からそうして、水の来ていない階上をくるくる歩き回っているのだが。
最初に遊戯が発した一言で、何かの緊張感というか、事態に対する余分な力が抜けてしまった気がする。
そう、確かに事態をどうこうするより先に、お互いの無事を確かめるのが先だった。事態をどうこう、というのは後からでも出来る事ではあるし。
「自分から動かなきゃ事態は動かないっていう事がよーく判ったぜ」
肩を竦めて戯けたように続ければ、そこでようやく遊戯は振り向いて小さく笑った。
「買い被りすぎだよ」
「そうでもないと思うけどな」
そうしてお互い笑いあって、今度は揃って階下を見下ろした。
「とりあえずさしあたっての問題はコレだな」
「何なんだろうね…」
もう一人の遊戯の部屋の中も、似たような状態だった。・・・まぁこちらは元が元だけに、何だか更にシュールな絵画のような、大変な感じにはなっているけれど。
今2人がいるのは1段高くなっている場所だが、いつも扉を開けた所に広がっている広間のような空間はすべて水で薄く覆われてしまっていた。
今だ迷宮の様相を呈しているもう一人の遊戯の心の部屋。降り仰いで天井を見上げれば、入り組んだ迷路が闇に溶けている。
取りあえず目に見える範囲だけは水はそれから減りもせず、増えもせず、ただそこに満ちている。ただ、風もないのに時折水面をそよがせて。
まず意味の分からない事になっているこの現状ではあるのだが、不思議と危機感は感じない。別に嫌な感じもしない。
ただ、そこにあるだけ。
「あー…、今日休みでよかった」
何とかしようにも何とも出来なくて、ぺたりと石畳に座り込んで水面を眺めながらぼんやりとしてしまう。
水のある景色というのに人は安堵を覚えるらしいが、それも判るような気がしてくるというか。
緊張感がないなぁと我ながら思うが、そう思ってしまうのも仕方がない。第一、ある種何でもありなこの部屋では、よく考えれば何処までが異常事態なのかわからなくなった。
「…まぁ平日に比べても早い時間だしな」
「うん?」
「さっさと片付けて遊びに行くか」
もう一人の遊戯も、(自分の部屋の事なのに)同じような心情なのか、台詞自体はいつもの通りだが、何となく声に覇気がない。
けれど斜めに見上げた表情は緩い笑みを浮かべていて。
「…何かわかったの?」
「さっきからおかしいな、とは思ってたんだが」
それだけ答えて、不意にもう一人の遊戯は階下へと飛び降りた。水音と共に小さく飛沫が上がる。彼を中心にして、水面に波紋が走った。
「触れた感触は同じ水だ。だけど相棒、ほら」
膝近くまである水面から足を浮かせば、
「・・・濡れて、ないの?」
「そうだ」
慌てて先程まで水に漬かっていたはずの足に触れてみる。
「ホントだ…」
パンツの膝下に触れてみても水に濡れた感触はなく、さらりと乾いているだけ。
触れた感触も、少しひやりとした温度も、掻き分ける時の重みも、響く水音も、紛う方なき『水』だったからこそその違和感に気付かなかった。
もう一人の遊戯にならって、よいしょと階下へ降りる。屈んで触れた水は、普段よく触れるものと同じで。掬い上げてもこぼれ落ちていった。
だが、手のひらに濡れた感触は残らない。
「…じゃ、これ本物の水じゃないんだ?」
「そうだな。本物の水だったらちょっと拙いことになってたはずだからな」
・・・ん?
「どういうこと?」
「実はさっき気付いた時、水の中だった」
「えぇー!?」
思わず叫ぶ遊戯とは対照的に、同じように水を掬い上げながらも、もう一人の遊戯は至極冷静に言い切った。
「部屋でうとうとしていたんだが、何だか冷たいなと思って目を開けたら、もうその時には部屋自体がほとんど沈んでいたんだ。…別に苦しくは無かったんだが、流石に目を開けて結構驚いたな」
いや、それは流石に驚くでしょ、普通。
「すぐ部屋から出たが、オレは確かに殆ど頭までつかった筈なんだ。触れる感触は確かに水のものだったから、当然濡れてるものだって勝手に思い込んでいたんだが」
ほら、と差し出された手も触れてみた肩も、どこも濡れているような感触はない。
「こんなに早く乾くはずがないし」
「それにここに上がってくるまで結構距離があったが全然平気だった」
「・・・それってさ、息が出来た、ってこと?」
水の中で?
そう問えば、もう一人の遊戯は少し違うな、と首を傾げた。
「水の中みたいに身体も浮くし、動きもある程度制限される。でも呼吸は苦しくはならないし、口を開けていたって水を飲む事もなかった。それにオレたちの知っている水の感触はあるけれど、服を濡らす事もない」
身動ぎするたびに複雑な波紋を描くそれは、どうみても水にしか見えない。
けれど、触れても冷たい感触だけを残して、けして肌に残る事のない、それ。
水の、幻影。
「・・・おそらく、オレのイメージではあると思うんだけどな」
「…もう一人のボク?」
振り仰いで問い掛けてくるのに、小さく笑みだけを返す。
もう一人の遊戯は僅かに首を傾げて、部屋の奥の方へと視線を投げた。
少なくともこの“水のイメージ”の発端は自分なのは間違いない。
それは確証だった。
――――さっき、水に潜った時に感じたもの。
それは喩えようもない、懐かしさ、だったような気がする。
あの時確かに通り過ぎていったその感覚を、言葉にしてしまってもいいのかが判らない。
漠然とした予感めいたものが、そこにはあった。
この千年錘の迷宮の中でずっと隠され、封じられていたものが徐々に目覚めに向かっているのを確かに感じる。
長い年月の間に手放したものが、埋もれていたものが少しずつ溢れようとしているかのような。
・・・これも、『解放』によってもたらされた、変化の一つだとすれば・・・。
「もう一人のボク?」
遊戯の声に、沈んでいた思考が呼び戻される。
「何故、“こう”なのかはさっぱりだ」
…ただ、
「ただ?」
僅かに言い淀んだのに重ねて問い返せば、もう一人の遊戯は今は水に沈んでいる下方への階段をゆっくりと指す。
「下の方から何かの気配がする。・・・いや、気配がするというか、何かがある感じがする」
そうして指で示す先は、薄暗い闇の中へと沈む道で。
「・・・何か嫌な感じとかする?」
「いいや。そういった妙な波動とかは感じない。・・・だが、何か知ってるような気がする」
「…じゃあさ」
それまで闇に消える水面を、真剣な眼でじっと見つめていた遊戯が、くるりと振り返った。
「じゃあ、確かめに行こうよ!」
「相棒?」
もう一度視線を奥へと戻す。
その横顔に、もう一人の遊戯はそれ以上を飲み込んだ。
「・・・今までこんな事なかった、よね?」