ギャンブルの神様
ようやくかすめ取ってきた廃棄のおにぎりを一つ、それと公園の水。働き盛りと言ってもいい男の腹がそんなもので満たされるはずもない。
カイジはごくごくと水をたらふく飲んで一息ついた。
公園の水に金はかからない。水で腹を膨らませておけば、ひもじさも若干は誤魔化される。
公園の水で身体を拭いても凍えることもないし、着ている服を洗ってもすぐに乾くから、そういう意味では今が夏であるのはありがたかったが、廃棄の食料を確保しようにも腐りやすいので一長一短である。それに、いつまでもこうしているわけにもいかない。
親元に帰るという手段も考えないではないが、今はまだ見せる顔がないという羞恥の方が強かった。
優しいおじさんに借りた三万など、あの日の飲み食いと、パチスロであっという間に溶かしてしまった。今は地見屋まがいに、道端や自販機に落ちている金でどうにかこうにか日々を送っている始末だ。
自由はなくても一応食事が出される分、地下での生活の方がマシだったかもしれないなんて弱音は、心の片隅になくもない。
となれば、どうにかして口を糊塗する職を得ねばならないのだが、一時でも大金を手にした瞬間の快感が、いまだにカイジを縛り付けている。コツコツと働いても牛丼も食えないような労働と、ただハンドルを握っているだけで一生かかってもカイジの人生では稼げないだろう金額を手にしたギャンブル。
働くのがバカバカしくて、職を探す気にならないのも無理もなかった。
今だって、運よく多少の収入を得ても、その金をスロットに溶かしている。
稼げば儲けもの。今のカイジに手にできる収入なんてたかが知れているのだから、潔く賭けごとに使って一獲千金を狙い、人生の一発逆手を図らなくては嘘だ。というのは、要するにただの逃げだというのは、他ならぬカイジが誰よりもよくわかっている。
けれど、指の間からすり抜けていった栄光を、夢を、追いかけたところで無残に消え去る蜃気楼を、追わずにはいられない。
(考えろ……考えろ、オレ……)
ギャンブルの時に悲鳴を上げるくらいのうなりを見せた己の頭蓋。内に込められた思考は、時としてとんでもないひらめきとすさまじい快楽とをもたらしてくれる。
兵藤との、大槻との、そして一条との勝負は、楽しかったのだ。
どふどふと脳内を駆け巡る血流は、過剰なまでにアドレナリンを分泌させ、カイジに恍惚と快感とを叩きつけた。びりびりとするような勝負の熱が、カイジのまともな部分を食い散らかしていった。
酒でも女でも薬でも、多分カイジはもうあれほどの多幸感を得ることはできない。
ひりつくような渇望を覚えて、カイジは頭から水をかぶった。
酔っているようなものだ
あの船に乗ってからこっち、ずっとカイジはギャンブルという苦い酒に酔いどれている。
ふらつく足を公園の茂みの陰に踏み入れる。
下手に人目につく場所にいては、一時の安寧を邪魔される。
普通の人間はとかくアウトサイドの人間を忌み嫌う。嫌悪し避けるだけならいざ知らず、攻撃し排斥しようとするものもけして少なくない。だから、カイジのような人間はなるべく人目につかないようにしなくては、おちおち休んでもいられない。
ちょうどよい人目につきにくい場所には先住者がいることも多いから、カイジは注意深く周辺を見渡した。
そしてぎょっとした。
公園の仕切りで囲まれた小さな溜池から、白い腕がにょっきりと生えていた。
酔っている、と言っても比喩的な表現で、幻覚が見えるほどに追い詰められている自覚はない。
どうせ人形だと自分に言い聞かせても、無視することはできなくて、カイジは恐る恐る池に近づいた。
池の藻を掻き分けるようにして、一本の腕は天へと差し伸べられている。白磁にも似た白い皮膚は、けれど人間の肌の滑らかさを持っていた。
「っ……おいおいおい……」
厄介事はごめんだと自分に言い聞かせても、もし、ここで自分が見なかったことにして、見殺しにしてしまったらと思うと恐ろしくて仕方がない。
カイジはややためらってからザプザプと池の中に踏み込んだ。
池はカイジの腰どころか、膝を少し超える程度の深さしかなく、こんなところで人が溺れているとしたら、そんなものは悪い冗談だとしか思えない程度の浅さだった。
どくんどくん、と嫌な緊張に、背筋を冷や汗が伝う。
思い切って手を掴んでみると温かかった。
「え?」
まだ生きている人の身体が温かいのは当然のことだ。当然なのに、その温もりも、いや掴めてしまったことがそもそも予想外で、カイジは戸惑った。
この温もりは生きている。
「……って、ぼけてる場合じゃねえ!」
掴んだ腕を手掛かりに、ぐっと引き上げてみると、ヘドロの中から現れたのは、白い肌の少年だった。中学生ぐらいだろうか。くったりと脱力していたが、身体は温かい。髪は白く人形のように容姿は整っている。制服なのか、黒のスラックスと、半そでの白いシャツを身にまとっていて、濡れた布がぴったりと張り付くせいで細い体躯が際立っている。
溺れていた?
泡を食って抱きしめるようにして引き上げ、池から引っ張り出した。
白い髪と同じくらいに顔色も青白く、呼吸をしていないように見える。
「おい!」
ぺちぺちと頬を叩いてみると、少年は、かふっ、と小さく息を吐き出した。
よかった、生きている。
カイジがほっと胸を撫で下ろしていると、少年は薄く目を開け、顔を顰めた。
「……誰?」
ゆっくりと身を起こし、まるで昼寝でもしていたかのようなそっけなさで、髪を掻き上げる。染みた水が、たぱたぱと滴り落ちる。
「だ、誰って……お前、なんであんなとこ、沈んで……」
カイジが池を指さすと、少年はそちらに目を向けて首を傾げた。
「オレが、沈んでたって?」
まるで信じていない口ぶりで少年は聞き返してくる。
「沈んでたんだよ! あんな、膝までしかないような池に」
何かがあってのことなのかと勘繰っても見たが、少年の態度はまるで危機感を感じさせない。
どういうことだ、とカイジが首を傾げていると、少年は「世話を掛けたね」とまるで大人のような口を利いた。
まさか濡れ鼠の少年をそのまま放置しておくわけにもいかず、公園で衣類は洗って干し、少年にも同じくさせた。
翌日パチスロにつぎ込むためにかろうじて持っていた幾許かの金で、安い衣類と食料を買い求め、少年に与えると、少年は「どうも」と何の疑いもなくそれらを受け取った。
少年は赤木しげると名乗った。
「……で、なんで池になんか沈んでたんだ」
「さぁ?」
しげるは首を傾げて見せる。
池に沈んでいたなんてまるっきり嘘のようだった。
おそらくは警察かなにかに連れて行くべきなのだろうが、ホームレスで、しかもアンダーグラウンドな世界に関わる身からすると、そういった場所は敷居が高かった。
それにあんな場所にただ沈んでいて、しかも何故かを明かさないしげるにはよほどの事情がある気がして、深く突っ込むこともできなかった。
カイジはごくごくと水をたらふく飲んで一息ついた。
公園の水に金はかからない。水で腹を膨らませておけば、ひもじさも若干は誤魔化される。
公園の水で身体を拭いても凍えることもないし、着ている服を洗ってもすぐに乾くから、そういう意味では今が夏であるのはありがたかったが、廃棄の食料を確保しようにも腐りやすいので一長一短である。それに、いつまでもこうしているわけにもいかない。
親元に帰るという手段も考えないではないが、今はまだ見せる顔がないという羞恥の方が強かった。
優しいおじさんに借りた三万など、あの日の飲み食いと、パチスロであっという間に溶かしてしまった。今は地見屋まがいに、道端や自販機に落ちている金でどうにかこうにか日々を送っている始末だ。
自由はなくても一応食事が出される分、地下での生活の方がマシだったかもしれないなんて弱音は、心の片隅になくもない。
となれば、どうにかして口を糊塗する職を得ねばならないのだが、一時でも大金を手にした瞬間の快感が、いまだにカイジを縛り付けている。コツコツと働いても牛丼も食えないような労働と、ただハンドルを握っているだけで一生かかってもカイジの人生では稼げないだろう金額を手にしたギャンブル。
働くのがバカバカしくて、職を探す気にならないのも無理もなかった。
今だって、運よく多少の収入を得ても、その金をスロットに溶かしている。
稼げば儲けもの。今のカイジに手にできる収入なんてたかが知れているのだから、潔く賭けごとに使って一獲千金を狙い、人生の一発逆手を図らなくては嘘だ。というのは、要するにただの逃げだというのは、他ならぬカイジが誰よりもよくわかっている。
けれど、指の間からすり抜けていった栄光を、夢を、追いかけたところで無残に消え去る蜃気楼を、追わずにはいられない。
(考えろ……考えろ、オレ……)
ギャンブルの時に悲鳴を上げるくらいのうなりを見せた己の頭蓋。内に込められた思考は、時としてとんでもないひらめきとすさまじい快楽とをもたらしてくれる。
兵藤との、大槻との、そして一条との勝負は、楽しかったのだ。
どふどふと脳内を駆け巡る血流は、過剰なまでにアドレナリンを分泌させ、カイジに恍惚と快感とを叩きつけた。びりびりとするような勝負の熱が、カイジのまともな部分を食い散らかしていった。
酒でも女でも薬でも、多分カイジはもうあれほどの多幸感を得ることはできない。
ひりつくような渇望を覚えて、カイジは頭から水をかぶった。
酔っているようなものだ
あの船に乗ってからこっち、ずっとカイジはギャンブルという苦い酒に酔いどれている。
ふらつく足を公園の茂みの陰に踏み入れる。
下手に人目につく場所にいては、一時の安寧を邪魔される。
普通の人間はとかくアウトサイドの人間を忌み嫌う。嫌悪し避けるだけならいざ知らず、攻撃し排斥しようとするものもけして少なくない。だから、カイジのような人間はなるべく人目につかないようにしなくては、おちおち休んでもいられない。
ちょうどよい人目につきにくい場所には先住者がいることも多いから、カイジは注意深く周辺を見渡した。
そしてぎょっとした。
公園の仕切りで囲まれた小さな溜池から、白い腕がにょっきりと生えていた。
酔っている、と言っても比喩的な表現で、幻覚が見えるほどに追い詰められている自覚はない。
どうせ人形だと自分に言い聞かせても、無視することはできなくて、カイジは恐る恐る池に近づいた。
池の藻を掻き分けるようにして、一本の腕は天へと差し伸べられている。白磁にも似た白い皮膚は、けれど人間の肌の滑らかさを持っていた。
「っ……おいおいおい……」
厄介事はごめんだと自分に言い聞かせても、もし、ここで自分が見なかったことにして、見殺しにしてしまったらと思うと恐ろしくて仕方がない。
カイジはややためらってからザプザプと池の中に踏み込んだ。
池はカイジの腰どころか、膝を少し超える程度の深さしかなく、こんなところで人が溺れているとしたら、そんなものは悪い冗談だとしか思えない程度の浅さだった。
どくんどくん、と嫌な緊張に、背筋を冷や汗が伝う。
思い切って手を掴んでみると温かかった。
「え?」
まだ生きている人の身体が温かいのは当然のことだ。当然なのに、その温もりも、いや掴めてしまったことがそもそも予想外で、カイジは戸惑った。
この温もりは生きている。
「……って、ぼけてる場合じゃねえ!」
掴んだ腕を手掛かりに、ぐっと引き上げてみると、ヘドロの中から現れたのは、白い肌の少年だった。中学生ぐらいだろうか。くったりと脱力していたが、身体は温かい。髪は白く人形のように容姿は整っている。制服なのか、黒のスラックスと、半そでの白いシャツを身にまとっていて、濡れた布がぴったりと張り付くせいで細い体躯が際立っている。
溺れていた?
泡を食って抱きしめるようにして引き上げ、池から引っ張り出した。
白い髪と同じくらいに顔色も青白く、呼吸をしていないように見える。
「おい!」
ぺちぺちと頬を叩いてみると、少年は、かふっ、と小さく息を吐き出した。
よかった、生きている。
カイジがほっと胸を撫で下ろしていると、少年は薄く目を開け、顔を顰めた。
「……誰?」
ゆっくりと身を起こし、まるで昼寝でもしていたかのようなそっけなさで、髪を掻き上げる。染みた水が、たぱたぱと滴り落ちる。
「だ、誰って……お前、なんであんなとこ、沈んで……」
カイジが池を指さすと、少年はそちらに目を向けて首を傾げた。
「オレが、沈んでたって?」
まるで信じていない口ぶりで少年は聞き返してくる。
「沈んでたんだよ! あんな、膝までしかないような池に」
何かがあってのことなのかと勘繰っても見たが、少年の態度はまるで危機感を感じさせない。
どういうことだ、とカイジが首を傾げていると、少年は「世話を掛けたね」とまるで大人のような口を利いた。
まさか濡れ鼠の少年をそのまま放置しておくわけにもいかず、公園で衣類は洗って干し、少年にも同じくさせた。
翌日パチスロにつぎ込むためにかろうじて持っていた幾許かの金で、安い衣類と食料を買い求め、少年に与えると、少年は「どうも」と何の疑いもなくそれらを受け取った。
少年は赤木しげると名乗った。
「……で、なんで池になんか沈んでたんだ」
「さぁ?」
しげるは首を傾げて見せる。
池に沈んでいたなんてまるっきり嘘のようだった。
おそらくは警察かなにかに連れて行くべきなのだろうが、ホームレスで、しかもアンダーグラウンドな世界に関わる身からすると、そういった場所は敷居が高かった。
それにあんな場所にただ沈んでいて、しかも何故かを明かさないしげるにはよほどの事情がある気がして、深く突っ込むこともできなかった。