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吐血じゃない

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その日、カイジはご機嫌だった。
 座った台が久しぶりに爆発したのだ。
 ほんの千円程度の軍資金が六万にも膨らんだのだから、機嫌だってよくなろうというものだ。
 何か美味いものでも食おうか、ニコニコ顔で店を出たところで、馴染みの白髪頭と行き会った。
「おう、アカギ」
「珍しい。今日は勝ったみたいだね、カイジさん」
 顔を見ただけで察したのか、アカギは鋭いまなざしを一転丸くしてみせる。
「珍しいとは何だよ。たまには勝ってるっての」
 自分だって無自覚にたまには、と吐露しているのも気が付かずにカイジは眉をひそめた。
 そして、いいことを思い付いたとでも言いだしそうに目を瞬かせる。
「な、もう晩飯食った?」
「いや、まだだけど」
 アカギの返答にカイジは思い切り自慢げな顔になる。
「じゃ、おごってやるよ」
 思いがけないカイジの言葉に、アカギは再び目を丸くした。
 おごってくれと言われることは多かれど、おごってやる、なんて言葉は不確定な未来の約束以外でカイジからついぞ聞いたことがなかったからだ。ちなみにその約束はついぞ果たされたことはない。
「こいつは驚いた。明日は槍でも降るんじゃないの?」
「そんなにか。オレだって金がありゃ飯ぐらいおごるっての」
 カイジは少し気分を害した様子で、唇を尖らせた。いい年をしているくせに表情が豊かなのもさることながら、表現が子供っぽい。
「蛙ぐらいは降ってもおかしかないでしょ」
「オレのせいでファフロッキーズかよ」
 カイジは気分を害した様子だったが、それでもやめた、などとは言わず、アカギに顎で行くぞと促した。
 何しろ、スロット機の前にずっと座りっぱなしで、サービスで出るコーヒーの他には煙草しか口にせず、開店から集中して打ち続けていたのだ。腹はひどく減っていて、ここで立ち話を続けていないで、早くどこかの店に入って何かを口にしたかった。
 カイジがアカギを伴って足を踏み入れたのは、リーズナブルさが売りのイタリアンレストランチェーンで、夕方という時間もあってか学生の姿も多く、ひどく騒がしい。金を手にしたときは贅沢をするつもりだったのだが、よく知らない店に入るのはなんだか気が引けて、結局馴染み深い店を選んでしまった。
 結構な混み様だったが、喫煙席を頼めば、そちらはいくらか空いていてすぐに案内された。
 ソファに腰を落ち着けて軽く息をつく暇もなく、さっそくメニューを開く。
 店はどこでも資金に余裕はあるのだから、いつもはしない贅沢をしてやろうじゃないかと、看板メニューの廉価なドリアはまず除外して、肉のページを見る。やはりステーキに心惹かれるが、季節のメニューも気になるし、刻み野菜のソースがかかったハンバーグも美味そうだ。
 しかし、まずはビールかな、ビールにはチキンとピザだよな、とメニューの最初の方に戻る。某波紋疾走のアレを彷彿とさせるトマトとチーズの盛り合わせはせっかくだからダブルサイズにしてしまおう。
 そこまで考えてから、カイジは顔をあげてアカギを見やった。
「飲むか?」
「あぁ」
 聞けばもちろん是が返ってきた。
 この店は酒もリーズナブルだ。ワインのでかいボトルもお値打ちだが、最初の一杯はぜひビールと行きたい。
「ビールでいいか」
「もちろん」
 とりあえずのところはビールと、トマトとチーズの盛り合わせをダブルサイズで、ポテト付きのチョリソー、高い方のシンプルなピザ、さらに焼肉とハンバーグの盛り合わせにした。ビールを飲むから、ライスセットはいらない。
 それでもまだ三千円くらいのものだ。後でワインと生ハムも頼もう。
 大したお大尽の気分で「で、あとは?」と振ると、アカギは「まだ喰うの」と肩を竦める。
「オレしか頼んでないだろうが。お前は何か喰いたいもんないのかよ」
 もちろん頼んだものをひとりで食べる気はないが、奢るといった手前、アカギの要望も聞かなくては奢ったことにならないだろう。アカギは問われて少し間を置いてから、ガーリックトーストを指さした。
「……それだけでいいのかよ」
「初めて来た店でよくわかんないからね。慣れてそうなカイジさんにお任せするよ」
「そ、そうか」
 つまみの選択だなんて簡単なことでも頼りにされたらしいことが嬉しくて、少しニヤけてしまう。二杯目からはワインにしような、などと物馴れた風を装えば「それも任せるよ」とアカギは頷いた。
 かくして、ささやかな晩餐が始まった。
 すぐに届いたビールで乾杯し、トマトとモッツァレラチーズの盛り合わせをつつく。大皿へ直にフォークを向けるカイジと違い、アカギは取り皿にトマトとチーズを同量取り、適度な大きさにナイフとフォークで切り分けて口に運ぶ。
 その所作は丁寧で、居るのは安いファミレスのはずなのに、なんだかちゃんとしたレストランに来てしまった気がして、カイジは瞬きした。
「……何?」
「あ、いや。几帳面な喰い方するな、と思って」
 チーズもトマトも一口サイズだから、片方づつなら簡単に放り込んでしまえる。しかし、いっぺんに口に運ぼうとすれば、やはりフォークと共にナイフが必要だ。
 別に昭和のおっさんじゃあるまいし、カイジだってフォークとナイフを使うのに不自由があるわけがないが、アカギほど品よく使いこなせるかといえばそれはまた別の話だった。
「だって、一緒に喰うもんなんでしょ。こいつは」
「……あぁ」
 そういえば某天使のような料理人もそんなことを言っていたっけ。以前読んだ漫画を思い返す。アカギを真似て、いっぺんに口に運ぶと、絶賛するほどではないがやはりそうした方が美味い気がした。
 次々にやってくるチョリソーも、ピザも、半分づつ。ハンバーグは一口程度に切り分けてしまい、フォークでつつけるようにする。
 パチスロに勝った話、この使い道をどうするかの夢想。高揚した気分と、酒と飯が口を軽くする。
 追加の赤ワインを頼んだところでガーリックトーストが来た。
 この店のガーリックトーストは小ぶりな細長いパンへ縦に切り込みを入れ、ガーリックバターを挟んで焼き上げた形だ。トーストはスライスされておらず、ミニチュアのフランスパンがまるっと一本届く。
 こいつも切り分けた方がいいかと逡巡しているとアカギが「齧ったら?」と提案してきた。別に切れないわけじゃないが、丸っこいフォルムと、外皮の硬さから、切り分けるのはなかなか難儀そうだ。
「あったかいうちの方が美味いだろうし、お先にどうぞ」
「あ、あぁ……」
 届いた赤ワインを注ぐアカギを横目に、カイジは遠慮なくはじっこを口に入れる。
 しっかりと焼かれた外皮は堅い。ぐっと歯を食い込ませ、噛みちぎろうとすると、アカギがくくっと笑った。
 パンを口に入れたままカイジは首を傾げた。たっぷりと挟み込まれているらしいバターが、ぽたりとテーブルに滴り落ちる。
「あにふぁおふぁひぃ?」
 何がおかしい、と問うたはずが、口に咥えたままだったので、ふにゃふにゃとした発音になったが、アカギはちゃんと聞きとってくれたようだ。
「あぁ、ほら。垂れてる」
「……おう」
 噛みちぎれた分を咀嚼しつつ、お手拭きで垂れた油をふき取る。
作品名:吐血じゃない 作家名:千夏