東方『神身伝』
「ブァクション。」
冬馬は今、食事の真っ最中なわけだが。
そこで、思いっきりくしゃみをしてしまった、特に風邪をひいている訳でもないし、本当に不意に出てしまった。
くしゃみをした後に、鼻がムズムズとして、違和感をおぼえて擦る。
その拭った手に、少しだけ血が付く。
「顔は殴らなかった筈なんだけど。」
冬馬の横に座り、一緒に朝食を食べている萃香が、心配する様に顔を覗き込んでくる。
そう、冬馬と萃香はつい先程まで、ゲームと称して激しい戦闘を繰り広げていた。
その時に萃香は、女性に対して、手を挙げないと言う冬馬の考えが、自分を舐めていると言い、その拳に怒りという感情を乗せて戦った……様にみせた。
わざと声を低くし、めけんに皺をよせ、わざと怒りの表情を表した。
だが、実際には全く怒りなどは感じていなかった。
むしろ、自分の事を、一人の女として接しようとしてくれている事に、嬉しさすら覚えていた。
だからこそ、優しくしてくれるからこそ、彼女は怒りに似せてその拳に力を込めた。今後、同じ状況化で、おなじ考えが浮かばない様に。
彼の、女性に手を上げない、その思いはとても素晴らしい事だ、自分を殺す勢いで攻撃してくる相手に対して。ただ、その相手が女性だからという理由で、手を上げない。
尊者そこらの人間には真似のできない事だ。
最早、これは胸を張って自慢をしても良いレベルの事なのだ。
だがしかし、萃香はそれと同時に、この青年は危ういと思った。
優しい事は、大いに結構だ、萃香自身も優しい男性は嫌いではない、むしろ好意を持てるとさえ思う。
だが、状況によっては、その思想は弱点以外の何者にもならない事を、女である萃香は冬馬よりも深い部分まで理解していた。
だから、心を鬼にして、彼を指導するつもりで、叱り付ける気持ちで拳を振るった。
ここは、幻想郷だ。
今まで冬馬が過ごしてきた世界の常識は、その殆どが通用しない、そんな世界だ。
時に、命のやり取りをしなければならない状況に陥る時だってあるかも知れない、そんな世界だ。
そして、その相手がもし女性だったら、今の冬馬は反撃する事なくその命を落としていたかも知れない。
萃香は、そんな事は有ってはならないと思っていた。
自分のほんの十分の一ほども生きていない、この優しい青年を、決して、そんな女だから男だからと言う理由で死なせたくはなかった。
そして、その気持ちはしっかりと冬馬に伝わっていた。
萃香の攻撃で、一時は意識を失ったが、ものの数分で意識を取り戻し、まだ、見た目には生傷は残っていたが、普通なら完治に二三日掛かるであろう傷も、その殆どが治りかかっていた。
不思議な現象だった、その体に
有った、致命的な傷のみが殆ど治療され、それ以外の小さな傷は、血が止まる程度の回復しか見せていなかったのだ。
正に、効率の良い回復方法だ。だが、気を失っていた冬馬は、それを無意識にやったと見て間違いはないだろう。
これも、冬馬の中に芽生えた力の一つなのかもしれないが、今はそれを知る由も無い。
そして、当の本人も、自分の体が治っている不思議には気付いているだろう、そして、それについて思考を働かせるのが当たり前の状況だった。
だが、そんな事以上に頭の中に有ったのだろう。
何よりも先に、萃香に向かって頭を下げ謝罪してきたのだ。
そして、彼の口はこう告げた「今度は、負けない。」それだけで十分だった、萃香は全てが伝わっている事に満足していたが、しっかりと冬馬の言葉に返した「何時でも掛かっておいで。」
二人は、お互いに最低限の会話をした後、隣通しに座り、黙って食事を始めた。
最早、二人の間にはにはそれ以上に、言葉は要らなかったのだろう。
「誰かが噂でもしてるんじゃ無い?」
霊夢がそんな冬馬に、根も葉も無い事を言うが、霊夢は何やら妙に自信ありげだった。
そんな会話をしながら、三人は朝食を済ませると、霊夢と冬馬で片付けを早々にすませ、縁側でゆったりと御茶をすすっていた。
「しかし、耳と尻尾が生えるなんて夢にも思ってなかったなぁー。」
冬馬は、そう言って立ち上がり一人庭の真ん中に立つ。
着ているジャージのヅボンを、突き破り生えている尻尾に目をやると、その生えている根元に手をやる。
尻尾はちょうど尾てい骨から伸びる様に生えていて、その様は何ら不自然さを感じさせず、むしろ、最初からそこに有ったのでは無いかと思わせる程に自然と生えていた。
同様に、頭から生えている狼の様な獣耳にも手をやる、それも、実に違和感なく頭からはえていて、元々耳が有った場所に手をやると、そこは綺麗さっぱりに平らになっていた。
耳の位置が変わったからと言って、何ら聞こえ方に変化はなく、むしろ今までより、よく聞こえる様な感覚さえあった。
「そんな姿だと、人間だなんて言われても、信じる者はいないねぇ。」
冬馬と霊夢が、御茶をすする中、一人手に持つ紫色の瓢箪から、酒を口に運ぶ萃香は、冬馬の姿を見ながら、ほろ酔い加減なのか、顔を若干赤らめて、とろみのある声で呟く。
萃香のいう事は最もだった、最早、今の冬馬は人間と呼ばれる姿はしていなかった、更にはその身体能力も、人間の域を軽く逸脱していたからだ。
だが、冬馬は、その事に関して、深く考えるのはもう辞めていた。
勿論、最初は考えた。
朝食を食べている最中も、その事ばかりを考えていた。
だが、答えなんて出なかったからだ。
あの狼に出会ってから先は、、自分の理解の範疇を超える事しか起こっていなかった。
そして、その狼に関わりをもち、突き放そうとした彼の言葉を拒んだのは自分だ。
もしかしたら、狼はこうなる事も踏まえた上で、自分を突き放していたのかもしれない。
だから何だ。
もし、あの時に、こうなる事が解っていたからと言って、怪我をしてでも、冬馬の事を最優先に考えてくれた彼を、見放す事が出来たのか?
答えは「ノー」だ。
冬馬は、自分よりも他者の事を優先に考える、お人好しだ。
どれだけ、面倒くさいと口にしたところで、最終的には他人のために体は動いてしまう、そう言う性格なのだ。
「今更、ぐちぐち考えても仕方が無い、なら、うけいれてやる。
その上で、自分がどうするべきか決めて行く。」
冬馬は、萃香の言葉に返す様に答える。
そして、その言葉には、どこか力強い物を、霊夢と萃香に感じさせた。
霊夢と萃香は、そんな冬馬を、成長して行く子供を見る様な優しい表情で見つめる。
「あんたが自分でそう決めたのなら、それでいいんじゃないかい?」
「っで?具体的にはこれからどうするの?」
霊夢は、冬馬に核心にも似た質問を投げかける。
そう、今の冬馬にはこれと言って何か目的がある訳では無い。
突如芽生えた力のせいで、生き成り見ず知らずの土地に連れてこられただけなのだ。
「そうだなぁー。この力の正体を知りたいな、それを知る事で自分のやるべき事が見つかるかもしれない。
でも、それよりも先ずは此処での生活環境を整える事が当面の目標かな。
その為には此処で働く所を探さなきゃ。」
今の冬馬には何もない。