黄金の秋 - Final Episode 1 -
良く晴れた日曜日だった。大オレーニィ通りには午後の太陽が燦々と降り注ぎ、街路樹の下では大小のまるい木漏れ日がちらちらとポルカを踊っている。だが、ひと頃の狂気じみた暑さはすでになく、歩くには実に心地よい気候になっていた。
もう夏も終わりだな……
ジムからの帰り道、ミーシャはふとそう思って歩みをゆるめた。
SVRを退職したのをきっかけに、ミーシャはソコールニキ地区に居を移していた。かつて少年時代を過ごした地区に、数十年ぶりに戻ってきたのである。学校を卒業して軍隊に入るためにこの地区を離れたのは、まだスターリンが国を支配していた頃のことだ。それから時代は大きく移り変わり、それとともにモスクワの街はずいぶんと様変わりしていたが、それでもここが数多くの思い出に満ちた場所であることに変わりはない。ここでミーシャは今、かつての好敵手が経営するボクシング・ジムに非常勤のコーチとして迎えられ、週末ごとに児童向けの初級コースを指導している。この日も午後から2時間ばかり、ジムで子供たちを相手に楽しい時間を過ごしてきたところだった。
なにげなく空を見上げると、明るい青色の中にマシマロみたいにふんわりした白い雲がいくつか、いかにものんびりといった風情で浮かんでいる。
あの上で日光浴したら、さぞや気持ちがよかろうなあ。
そんな子供のような空想を楽しみながら、ミーシャはゆっくりと歩いた。やがてこの空にふいに雷がとどろき、驟雨が街を通りすぎると夏が終わる。そして束の間の秋が駆け抜けた後は、また長く厳しい冬を乗り越えなければ、再びこの季節に巡り合うことはできないのだ。そう思うと、急ぐ気にはなれなかった。できるだけ長く、このまぶしい陽光の下を歩いていたくて、ミーシャは一歩一歩を惜しむように足を運んだ。
再び空を見上げると、今度はその明るい青い色に心を奪われた。そして、ひとりの友のことを考えた。この空と同じ色の目をした、生涯無二の友のことを。
どうしてるかなあ、あいつは…。
その友・サーシャとは、もう半年近く会っていない。SVRの仕事を引退した後、サーシャは無用の人づき合いを避けるようになり、郊外のダーチャを田舎家に改築して引きこもってしまっていた。あれほど社交上手で礼儀正しかった男が、急に人嫌いの気難し屋になったことで驚く者も多かったが、もともとサーシャは大勢の人間が集まるにぎやかな場所にいるよりも、独りで静かに過ごす方が好きなのだ。彼が外交官風のソツのない物腰と巧みな話術で多くの人脈を取り結んでいたのは、職務の性格上それが必要だったからで、その仕事を退いたサーシャがあまり他人と付き合いたがらなくなるのは、ミーシャから見ればごく自然なことに思えた。
以来、会う機会はめっきり少なくなっていたが、それでもミーシャには彼との交流が途切れてしまったという印象はなかった。サーシャは時々思い出したように手紙をよこし、年に1度か2度ではあるが訪ねて来ることもある。また時にはミーシャの方がふらりと訪ねて行ったりする。するとサーシャは、予告もなしに現れた友にまず驚き、次に心から喜んで迎えてくれるのだ。
直接の行き来は確かに少なかったが、二人の心理的な距離は少しも遠のいていなかった。いや、むしろミーシャには、サーシャが素の自分をさらけ出すようになったことで、以前にも増して近しくなったような気さえしていた。
それにしてもサーシャの隠棲ぶりは徹底していた。もはや世事を追いかける必要はないと言って、パソコンはおろかテレビやラジオにいたるまで、情報機器と呼べそうなものは一切、田舎家での生活から排除してしまっていた。
「せめてラジオぐらい置いといたらどうだ?」
サーシャがモスクワを引き払う考えを打ち明けた時、ミーシャはそう提言してみたが、サーシャは肩をすくめてこう言った。
「情報は中途半端なのが一番いけない。テレビやラジオで流れるニュースがどれほどのものか、君もよく知っているじゃないか。もう今までのような情報収集の手段は使えないんだ。断片的で不正確な情報しか手に入らずにイライラするくらいなら、いっそ何も知らない方が平穏に暮らせるよ」
「だが、いくらなんでも世の出来事がまったく分からんのでは困るだろう?」
「…まあ、新聞ぐらいは読むことにするよ。紙に印刷されたものなら、好きなときに好きな順序で読めるからね。それに何より騒がしくない」
サーシャらしい言い分ではある。だからこの件については、ミーシャはそれ以上は何も言わなかった。だが、彼が電話も引かないつもりだと言った時にはさすがに驚いた。世の中には郵便という手段がある、と言い張るサーシャを、ミーシャはあの手この手で説得したものである。
手紙では急な用件には間に合わない、メールもFAXもない上に、電話すらないでは困ることもある、ひとつぐらい即時性の高い連絡手段を残すべきだ、云々…。そして最終的には「わしは気が短いんだ!」のひと言で、ついにサーシャを折れさせたのだった。
この時のことを思い出すと、ミーシャは未だにニヤリと笑ってしまう。引越しを済ませてから数日後、サーシャは新しい電話番号を “わざわざ手紙で” 知らせてきたものだ。
妙なところで頑固な男だよなあ、あいつも……
まったく呆れるやら可笑しいやら。だがとにかく、サーシャがあまり電話を好まないようなので、さんざん電話の必要性を説いたミーシャではあるが、実際にかけることは稀だった。
そうだ。冬が来る前に、ジーナを連れて彼の田舎家を訪ねよう。
ミーシャは突然、そう決心した。久しぶりに電話をかけて、彼にその旨を伝えよう。あの家のそばには美しい森があった。秋に訪ねていけば、白樺の葉が色づいてさぞ見事なことだろう。その森を散策すればキノコや木の実が採れるだろう。ジーナが喜ぶに違いない。
そんな事を考えながら、ヤウザ川にかかる橋にさしかかった時だった。右手のルサコフスカヤ川岸通りから、ヤケに騒々しい車のエンジン音が聞こえてきた。振り向くと、真っ赤なBMWのツーシーターが猛スピードでこちらへ向かって走ってくるのが見えた。ハンドルを握っているのは、かなり若い男のように見える。隣に派手な服装をしたガールフレンドを乗せている。おおかたニューリッチとか呼ばれる新手のノーメンクラトゥーラ階級のドラ息子だろう、とミーシャは少し顔をしかめた。どうもこの国の人間は、ある一定レベルを超える財産なり権力なりを手にすると、世界が自分を中心に回っていると思い込む傾向があるようだ。社会のしくみが変わっても、そうした傲慢な特権階級は形を変えて現れてくる。おそらくこのドライバー君も、自分の車にだけは速度制限が適用されないと思い込んでいるのだ。
もう夏も終わりだな……
ジムからの帰り道、ミーシャはふとそう思って歩みをゆるめた。
SVRを退職したのをきっかけに、ミーシャはソコールニキ地区に居を移していた。かつて少年時代を過ごした地区に、数十年ぶりに戻ってきたのである。学校を卒業して軍隊に入るためにこの地区を離れたのは、まだスターリンが国を支配していた頃のことだ。それから時代は大きく移り変わり、それとともにモスクワの街はずいぶんと様変わりしていたが、それでもここが数多くの思い出に満ちた場所であることに変わりはない。ここでミーシャは今、かつての好敵手が経営するボクシング・ジムに非常勤のコーチとして迎えられ、週末ごとに児童向けの初級コースを指導している。この日も午後から2時間ばかり、ジムで子供たちを相手に楽しい時間を過ごしてきたところだった。
なにげなく空を見上げると、明るい青色の中にマシマロみたいにふんわりした白い雲がいくつか、いかにものんびりといった風情で浮かんでいる。
あの上で日光浴したら、さぞや気持ちがよかろうなあ。
そんな子供のような空想を楽しみながら、ミーシャはゆっくりと歩いた。やがてこの空にふいに雷がとどろき、驟雨が街を通りすぎると夏が終わる。そして束の間の秋が駆け抜けた後は、また長く厳しい冬を乗り越えなければ、再びこの季節に巡り合うことはできないのだ。そう思うと、急ぐ気にはなれなかった。できるだけ長く、このまぶしい陽光の下を歩いていたくて、ミーシャは一歩一歩を惜しむように足を運んだ。
再び空を見上げると、今度はその明るい青い色に心を奪われた。そして、ひとりの友のことを考えた。この空と同じ色の目をした、生涯無二の友のことを。
どうしてるかなあ、あいつは…。
その友・サーシャとは、もう半年近く会っていない。SVRの仕事を引退した後、サーシャは無用の人づき合いを避けるようになり、郊外のダーチャを田舎家に改築して引きこもってしまっていた。あれほど社交上手で礼儀正しかった男が、急に人嫌いの気難し屋になったことで驚く者も多かったが、もともとサーシャは大勢の人間が集まるにぎやかな場所にいるよりも、独りで静かに過ごす方が好きなのだ。彼が外交官風のソツのない物腰と巧みな話術で多くの人脈を取り結んでいたのは、職務の性格上それが必要だったからで、その仕事を退いたサーシャがあまり他人と付き合いたがらなくなるのは、ミーシャから見ればごく自然なことに思えた。
以来、会う機会はめっきり少なくなっていたが、それでもミーシャには彼との交流が途切れてしまったという印象はなかった。サーシャは時々思い出したように手紙をよこし、年に1度か2度ではあるが訪ねて来ることもある。また時にはミーシャの方がふらりと訪ねて行ったりする。するとサーシャは、予告もなしに現れた友にまず驚き、次に心から喜んで迎えてくれるのだ。
直接の行き来は確かに少なかったが、二人の心理的な距離は少しも遠のいていなかった。いや、むしろミーシャには、サーシャが素の自分をさらけ出すようになったことで、以前にも増して近しくなったような気さえしていた。
それにしてもサーシャの隠棲ぶりは徹底していた。もはや世事を追いかける必要はないと言って、パソコンはおろかテレビやラジオにいたるまで、情報機器と呼べそうなものは一切、田舎家での生活から排除してしまっていた。
「せめてラジオぐらい置いといたらどうだ?」
サーシャがモスクワを引き払う考えを打ち明けた時、ミーシャはそう提言してみたが、サーシャは肩をすくめてこう言った。
「情報は中途半端なのが一番いけない。テレビやラジオで流れるニュースがどれほどのものか、君もよく知っているじゃないか。もう今までのような情報収集の手段は使えないんだ。断片的で不正確な情報しか手に入らずにイライラするくらいなら、いっそ何も知らない方が平穏に暮らせるよ」
「だが、いくらなんでも世の出来事がまったく分からんのでは困るだろう?」
「…まあ、新聞ぐらいは読むことにするよ。紙に印刷されたものなら、好きなときに好きな順序で読めるからね。それに何より騒がしくない」
サーシャらしい言い分ではある。だからこの件については、ミーシャはそれ以上は何も言わなかった。だが、彼が電話も引かないつもりだと言った時にはさすがに驚いた。世の中には郵便という手段がある、と言い張るサーシャを、ミーシャはあの手この手で説得したものである。
手紙では急な用件には間に合わない、メールもFAXもない上に、電話すらないでは困ることもある、ひとつぐらい即時性の高い連絡手段を残すべきだ、云々…。そして最終的には「わしは気が短いんだ!」のひと言で、ついにサーシャを折れさせたのだった。
この時のことを思い出すと、ミーシャは未だにニヤリと笑ってしまう。引越しを済ませてから数日後、サーシャは新しい電話番号を “わざわざ手紙で” 知らせてきたものだ。
妙なところで頑固な男だよなあ、あいつも……
まったく呆れるやら可笑しいやら。だがとにかく、サーシャがあまり電話を好まないようなので、さんざん電話の必要性を説いたミーシャではあるが、実際にかけることは稀だった。
そうだ。冬が来る前に、ジーナを連れて彼の田舎家を訪ねよう。
ミーシャは突然、そう決心した。久しぶりに電話をかけて、彼にその旨を伝えよう。あの家のそばには美しい森があった。秋に訪ねていけば、白樺の葉が色づいてさぞ見事なことだろう。その森を散策すればキノコや木の実が採れるだろう。ジーナが喜ぶに違いない。
そんな事を考えながら、ヤウザ川にかかる橋にさしかかった時だった。右手のルサコフスカヤ川岸通りから、ヤケに騒々しい車のエンジン音が聞こえてきた。振り向くと、真っ赤なBMWのツーシーターが猛スピードでこちらへ向かって走ってくるのが見えた。ハンドルを握っているのは、かなり若い男のように見える。隣に派手な服装をしたガールフレンドを乗せている。おおかたニューリッチとか呼ばれる新手のノーメンクラトゥーラ階級のドラ息子だろう、とミーシャは少し顔をしかめた。どうもこの国の人間は、ある一定レベルを超える財産なり権力なりを手にすると、世界が自分を中心に回っていると思い込む傾向があるようだ。社会のしくみが変わっても、そうした傲慢な特権階級は形を変えて現れてくる。おそらくこのドライバー君も、自分の車にだけは速度制限が適用されないと思い込んでいるのだ。
作品名:黄金の秋 - Final Episode 1 - 作家名:Angie