リハビリトライアル Ⅱ
②「止まれ」 慶次と政宗
まるで、ごろごろと喉を鳴らして懐く猫のようだと漠然と思う。
ひとの首筋や顎の下に頭を擦り付けるようにして抱きついてくる様子は確かに猫のそれを思わせるが、可愛いと思えるのはそれが猫や犬のような大きさであるからだと政宗は思う。如何に猫や犬のような仕草で甘えられているとは言え、それが実のところ犬や猫のように小さなものではなく、身の丈が六尺を超える大男ともなれば話は別だ。
満面の笑みを浮かべた男は文字通りごろごろと喉を鳴らしそうな勢いで政宗に鼻先を擦り寄せ、首筋や喉元、肩口に顔を押し付けてくる。彼の長く伸びた髪は茶筅に高く結われており、政宗の目の前でそれがひょこひょこと揺れる様は確かに犬や猫の尻尾を思わせるが、不規則に頬を擦っていくその感触は余り心地の良いものではなかった。まるで刷毛で顔を叩かれているような感覚は酷く鬱陶しいもので、出来る事ならその後ろ髪を力の限りに握り締めて後ろへと引っ張ってやりたいと切に思うが、生憎と政宗の両腕は身体毎太い腕に抱き込まれていて殆ど動かすことが出来ない。試しに政宗も幾度が身じろぎをし、ぎゅうぎゅうと己を抱き締めてくる腕から逃れようとしてはみたものの、膂力に勝る腕はびくともしなかった。それどころか、政宗が少しでも抵抗の素振りを見せようものなら容赦なく腕に力を込めてくるのだから性質が悪い。これでは抱擁と言うより拘束、むしろ絞め殺すつもりなのではないかと妙な方向に思考が走りそうになる。――慶次には自分を殺す理由がないことは百も承知していると言うのに。
前田の風来坊は、またふらりと――本当に何処からともなく政宗の部屋や庭に侵入してくるのだから性質が悪い、既に家中の者も諦めているのか慶次を止めようとした気配すらないことに絶望する――政宗の元に現れたと思うや、突進する勢いで抱きついてきて今に至る。別に、懐かれていることに抵抗が有る訳でもなければ慶次のことを嫌っている訳でもないのだが、力加減と言うものを知らない男の愛情表現は少々過激で、おまけに政宗の都合を完全に無視している場合が多い。今もそうだ、政宗が溜まりに溜まった執務を片付け――山積みになった仕事を終わらせるまでは部屋から出しません、と鬼の形相で低く唸った竜の右目の迫力に押されたとは言えない――漸く一息つける、と安堵のため息をついた瞬間に風来坊の襲来である。抗う間もなく抱きすくめられてふんふんと鼻を鳴らされて、最早蹴倒す気力も殺がれたというのが政宗の本音だった。
――まさか、仕事が終わるのを待っていたのか。
まさかな、と頭の片隅では呟いてみるものの、政宗を監視していた小十郎ならばやりかねない。彼は別に、仕事で疲れた政宗に癒しを与えようと思った訳ではないだろう、否、そうに決まっている。小十郎が考えることと言えばその逆で、政宗が慶次の来訪を知ればそれを口実にして逃げると思ったに違いない。或いは慶次が仕事の邪魔をすることを見越して『待て』と言ったのかもしれない。
実のところ、政宗の行動を伊達家中で唯一制御できる(とされているが、政宗としてはそんなことはないと全力で否定したい所である)小十郎の一喝には、流石の慶次も逆らえないらしい。以前に一度、慶次は小十郎をからかった挙句に散々な目に遭わされていた筈だ。恐らくはその時の記憶がトラウマになっているのだろう。
尤も、そんな慶次に対して政宗は、同情することなどありはしなかったが(むしろ助けてくれ、と泣きついてきた慶次を、自業自得だと蹴り出した記憶がある)。
慶次の性格を考えれば、その時のことを根に持っているとも思えなかったが、こうもぎゅうぎゅうと息苦しいほどに抱き締められていると、何やらもやもやと嫌がらせをされているような気がしてしまう。何故そんなことを考えてしまうのかは政宗自身にもよくわからない、――慶次の事を嫌っている訳ではなく、むしろ好いていると言っても良いのだが――何か得体の知れないものが政宗の心に引っ掛かり、奇妙な違和感を齎していた。それはまるで巧く飲み込めずに喉に引っ掛かってしまった魚の小骨のように、感じるか否かの微妙な刺激で政宗に己の存在を主張している。半ば幻覚に近いそれは、喉を大きく鳴らしたところで飲み下せるはずもない。
それが、尚更鬱陶しい。
苛々と感情を波立たせる政宗とは裏腹に、慶次は相変わらずごろごろと喉を鳴らしている。確かに半年近く会えない日々を過ごしていたことは事実であるが、さりとてそれも珍しい話ではない。会えて嬉しいと言う感情は確かにあるものの、慶次の異常なまでの懐きようには少々違和感が残った。
――何か、おかしい。
それは明確な理由があってのことではないが、こういう時の直感と言うものは意外にも良く当たる。そして経験上、政宗は自分の直感がそこそこの正解率を誇っていることを知っていた。
だからこそ、拭い難い違和感。
果たしてそれは、何処に源があるのだろう?
しかしそんな政宗の苛立ちと疑問を余所に、慶次は政宗を抱きしめる腕に一層の力を込め、ふんふんと鼻を鳴らしつつ耳の裏側に唇を押し付けてくる。それは単に懐いてくる仕草、と言うより、別の意図を如実に感じさせるものだった。
慶次が何を狙っているのか、それがわからない政宗ではない。
ないのだが、。
「慶次、ちょっと待て」
「やだ」
「まだ昼間だろうが! 何考えてやがる!?」
「政宗のことだけ考えてるよ」
――嘘をつけ。
思わず腹の底で悪態をつくも、咄嗟に口を閉ざしたのは高すぎるほどに高い自尊心が故だ。嘘をつけ、と言ってしまうのは簡単だが、それは同時に嘘をつかれて腹を立てている自身を認めることになりかねない。政宗は確かに慶次のことを好いてはいるが、さりとて媚びるつもりは微塵もない。甘えたいと思う事はあるが、自分から甘えさせてくれと言い出せないのもまた自尊心の故である。甘える自分、甘やかされたい自分――それを思う度に湧き上がる羞恥心を、政宗は抑え込むことが出来ない。その辺が小十郎たちに『素直ではない』とからかい混じりに指摘される原因にもなっているのだが、これは己の性分なのだから仕方がないではないか、というのが政宗の言い分である。容易に己の矜持を曲げる事が出来たなら、初めから苦労はしていない。そもそもこんな男に惚れたこと自体が間違いなのだと、――。
「‥‥‥‥ん?」
しがみついてくる慶次の腕からどう逃れようかと思案していた政宗は、ふと鼻先に漂った幽かな匂いに気付いて動きを止めた。ぴた、と硬直した政宗の様子を流石に不振に思ったのか、慶次は腕の力を緩めることなく髪に埋めていた顔を僅かに傾げて見せた。
「‥‥政宗?」
どうしたの、と何事もない口調で問う慶次の様子を隻眼で眺めやりながら、政宗は一層強さを増していく違和感に眉を潜めた。
いつもと少し違う慶次の態度、いつになく甘えた仕草、嗅ぎ慣れない匂い。
特にその匂いが妙に気になって、政宗は間近に迫る慶次の髪に鼻先を寄せた。
「ま、政宗?」
先刻慶次がそうしたように、今度は政宗がふんふんと鼻を鳴らす様子に驚いたのだろう、政宗の身体を抱き込む腕の力が僅かに緩む。存外動揺しているらしいと気づき、政宗はひくりと眉間に皺を寄せた。
作品名:リハビリトライアル Ⅱ 作家名:柘榴