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第二部8(81)ma chérie

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マリア・バルバラの部屋の前まで案内すると、執事は「よろしくお願いします」とでもいうように小さく会釈し、下がっていった。

ダーヴィトはスッと一息深呼吸すると、ドアをノックして中に向かって話しかけた。

「マリアさん。いるんでしょう?ダーヴィトです。今日の演奏会、あなたの姿が見えなかったので、心配になって来てしまいました」

ドア越しに話しかけたダーヴィトに、返事は返って来なかった。

尚もダーヴィトは話し続ける。

「先ほど執事さんから、あなたの意向をお聞きしました。…僕は、少し調子に乗り過ぎたでしょうか?美しいあなたと、素晴らしい時間を共有できたことに…舞い上がって有頂天になりすぎたのでしょうか?…確かに僕はまだ、しがない学生で、あなたに釣り合う大人の男性には程遠いかもしれない。でも…少なくとも僕は…、あなたとの関係を、軽いものであると、単なるアバンチュールであるなどとは、一度たりとも思ったことはなかった。…僕はあなたと出会って、あなたと一緒にいて、少なからずこの先あなたと過ごす未来を想像していたし、自惚れかもしれませんが…あなたもまた同じだと…思っていました。ねえ…、聞いているのでしょう?今まで過ごした時間は、僕の独り相撲だった?」

ややあって、ドアの向こうから戸惑いがちな返事が返って来た。

「あなたは…ミュンヘンでも名の知れた大実業家のご長男なのでしょう?こんな傾いた斜陽貴族の嫁き遅れの女よりも、もっと相応しいお相手がいる筈だわ。…私こそ、舞い上がって…いい年して、自分の立場も顧みずに…ついあなたの…友情に甘えてしまった…」

泣いていたのだろうか?少し声がいつもよりもくぐもって掠れている。

「友情では…ないでしょう?そんな事、分かっているくせに。憎い人だ。…それにね、僕には齢の離れた姉がいてね、家業に通じた優秀な彼女の夫が養子に入って、もう家の事業を継ぐことが、僕の生まれる前から決まっているのですよ。だから、あなたは僕の家の事など、何一つ気にかける事はないんです」
― ねえ、ドアを開けて、顔を見せて・・・・。

ドアに顔を寄せてダーヴィトはそっと最後の言葉を呟いた。

あるいは彼女も同じようにドアに身を寄せていたのかもしれない。
彼の囁き声に、ドアノブが左右に揺れ、ゆっくり空いたドアからマリア・バルバラが顔を覗かせた。

ずっと部屋に籠っていたのだろう、珍しく髪を下し、部屋着姿の彼女の目は泣きはらして赤くなっていた。
彼女のその顔に、よく感情を昂らせて涙を浮かべていた、ユリウスの面影が重なった。

「泣いてたの?」

ダーヴィトがマリア・バルバラの涙の跡の残る白い頬をそっと大きな手で包んだ。

「…目の調子が悪かったのよ…」

泣いていたことを指摘され、少しきまり悪そうに目を逸らせて、マリア・バルバラが答えた。
こういう鼻っ柱の強い所も、妹とそっくりだ…と思った。愛おしさがこみ上げる。

「こんなに泣きはらすほど?…それは重症だ」
笑いを含んだ声で答えると、ダーヴィトはマリア・バルバラの泣きはらした瞼にそっと口づけた。

「部屋へ入れて…。マリア」

その言葉に、マリア・バルバラは少しはにかんだ表情でコクリと頷くと、ダーヴィトの背中に手を遣り、彼を部屋の中へ迎え入れた。

そして―
翌朝を迎えるまでそのドアが開かれることはなかった。
作品名:第二部8(81)ma chérie 作家名:orangelatte