第二部25(98) エピローグ1
― ゲルトルート!
ダーヴィトはそう言ってウィンクして見せると、後ろに控えていたゲルトルートにそれを持って来させた。
ゲルトルートの抱えた「それ」を目にした瞬間―、アレクセイの鳶色の瞳が驚愕で見開かれた。
「覚えがあるか?ん?」
ダーヴィトがその―、幾分か古びて痛みの見て取れる楽器ケースをアレクセイに差し出す。
「…当たり前だ!バカ野郎…。忘れる…ものか…」
アレクセイが声を詰まらせる。
「…新生ロシアの「大使」は、ヴァイオリンの名手で、その妻はピアノの名手だと聞くぜ。…なあ、何か弾いてみろよ。…メンテナンスはしてあるぜ?」
アレクセイがケースの留め金を外し、楽器を取り出し、長い指で愛おし気に胴の表板を撫でる。
そして顎の下に挟んで、解放弦を鳴らす。
「いい…音だ…」
「これを託されたのは…実はイザークだったんだ。大戦前にロシアから来た女流ヴァイオリニストと共演した折に、彼女から託されたものらしい。…彼女は…演奏活動を隠れ蓑にして革命運動をしていたようで、イザークに楽器を託した後に、誤認逮捕された女性を無実を晴らすために、自首したんだ」
「アナスタシア…だろう? 彼女は幼馴染だった。ロマノフ王朝とは親類関係にあたる公爵家のお姫様で…控えめで品が良くて大人しくて…。そんな彼女がスパイ罪で逮捕された時は…大いに驚いたものだった」
「その…彼女は、それからどうされたのかしら?」
マリア・バルバラの質問に
「死んだ。シベリアへ流刑になってからの様々な労苦が彼女を蝕んで…、革命の年に亡くなったそうだ。…俺の義姉が…晩年を共に過ごして、最期を看取ってくれた」
「…アルラウネ…嬢か?」
「ああ」
「彼女は?」
「今は…ペトログラードの郊外で、俺の祖母さんと一緒に暮らしている」
「そうか」
「ねえ、ダーヴィト。イザークは?どうしているの?一度、ロシアにいた頃に、ラジオからイザークの弾くベートーヴェンが流れたんだ。だから…パリに来たときに、大ピアニストになったイザークの演奏が聴けるかもしれない…とぼくたち密かに期待していたんだ。…なのに、ウィーンでも、ロンドンでも、ここパリでも…イザークの名前を聞かない。…ねえ、一体イザークは…元気なの?なぜ今日イザークは手ずから楽器を持ってきてくれなかったの?」
「ユリウス、あのな。実はイザークは…大戦後間もなく手を故障して…今は演奏活動から遠ざかっているんだ。おまけに奥さんも亡くして、今は息子と二人でレーゲンスブルグに戻ってきているんだ」
「な…!」
思いもかけなかったイザークの不遇に、ユリウスが言葉をなくす。
「…手は…故障は…治るのか?」
「医学も進歩しているから…これから先、もしかしたらその可能性もあるかもしれない。…それに、音楽は何も演奏だけじゃない。イザークほどの豊かな音楽性をもってすれば、これからピアノ以外にも作曲や指揮者…それから指導者としてその才能を活かして行く事も可能だ。だけど今は…、あいつの心が傷ついて打ちひしがれているんだ。暫くあの故郷の静かな街で心を休めて、またあいつが音楽の海原へ羽ばたくのを…見守ってやろう」
「ん…」
「イザークにな…今回も一緒に会いに行かないかって…誘いはしたんだよ。お前さんからそのストラドをクラウスに返してやってくれって。― だけどあいつ、「今は会えない」って。皆志を遂げているのに、こんな自分じゃ…お前たちに合わせる顔がないって。…馬鹿だよな。そんなこと…。でもさ、あいつにだってプライドってものがあるんだよ。だから…またいつか、あいつが浮上する日を…、あいつが再会してもいいと思えるようになった時を、待っていてやろう?」
「そうだね…。早く…その日が来るといいな」
「だな。…俺たちだっていつまでここにいるかだって分からんしな」
「はは…。そうだな。イザークにもそれとなくせっついとくよ。…さて、と。お前さん達、僕たちに何を聞かせてくれるのかな?」
「そうだな…」
― これがいい。
アレクセイが書棚から一冊の楽譜を取り出し、ピアノの譜面台の上に開く。
アレクセイの鳶色の瞳が、鍵盤に指を置いたユリウスに合図を送り、芳純な音色を奏でる。
アレクセイの手に再び戻って来たストラディヴァリが甘美な旋律を歌う。
今や最愛の伴侶となった不滅の恋人の、そっと寄り添うようなピアノの和音に乗って。
彼らが弾いた曲は―、パガニーニの「カンタービレニ長調」。
元々はヴァイオリンとギターのために書かれた楽曲である。
青年時代のパガニーニがトスカーナで若い未亡人と甘い恋に堕ちた折に、ギターを弾くその愛人との合奏のために、彼は多くの甘美なヴァイオリンとギターのための楽曲を作ったと言われている。
この曲は作曲年代こそはっきりとしないが、きっとギターにまつわる作曲家自身の甘美な恋の思い出を噛みしめながら作られたものなのかもしれない。
二人が歩んできた15年余の愛の軌跡が、音の翼に乗ってその場を満たす。
ゆったりと。
満たされた想いを―。
作品名:第二部25(98) エピローグ1 作家名:orangelatte