キミシカ知ラナイ
何だろうこの状況。ボクは腰掛けたソファの端に肘をつきながら考える。
時間が空いたからと言って急に連絡をしたボクもいけなかったのかもしれない。
だけどその時、ちょうど買い物から帰ったところだと彼女が言って、これから部屋に行ってもいいか訊ねたら、一も二もなく快諾してくれたから、ボクはこうして足を運んできた訳で。
それなのに春歌ときたら、ボクの隣で購入したばかりの真新しい雑誌を、穴が開く程、夢中で見ている。今日発売の、ハイティーンから二十代前半の女子向けの情報誌。音楽関係の雑誌や資料を読んでいる事の多い彼女には少しめずらしい選択だけど、彼女だってターゲットに含まれる層だし、それ自体に問題はない。
ただし彼女が釘付けになっているのは、他でもない、巻頭特集『美風藍・ミステリアス系アイドルのキミだけに見せる素顔」。
ページをめくる度に「あっ」とか「うわぁ」とか感嘆の声を上げる彼女を、ボクはどう表現したらいいか分からない、複雑な思いで眺めていた。普段なら言わなくても気が付く、空になった紅茶のカップ。それを皿の上に置く音にさえ、何の反応もなく。
「……………ねえ、春歌」
「あっ、はい!」
見かねてボクが声を掛けると、春歌は雑誌から顔を上げる。
「今、ボクが隣にいるコト忘れてたでしょ」
「いえっ、決してそんなことは…」
「それにしては、キミが雑誌を開いてから二分十七秒、ボクらの間に何の会話もなかったけど」
「そ、それはその何と言いますか…写真が素敵でつい見入ってしまって…すみません」
頬を赤く染めながらそんなことを春歌は言って、なおも雑誌から目を離さない。ボクの顔と誌面との間で、交互に視線を動かしている。
その様子に、ボクは大きくため息をついた。
「まあ、仕方ないよね」
「え…」
「キミは待ちに待ったその雑誌を、発売日にわざわざ書店に出向いてようやく手に入れるコトが出来た。一刻も早くそれを開いて堪能したい。その気持ちは分からないでもないよ。だけど、ボクだって仕事の合間に出来た貴重な空き時間に、せっかくキミに会えると思って楽しみにして来たのに、キミはそんなに写真のボクがいいの?」
「あああのっ、そういうことではなくっ! その、いつも見るお仕事の写真とはまた違った自然な雰囲気で、とっても素敵な表情だったのでつい夢中になってしまっただけです!」
春歌は必死になって弁解をする。
彼女が言うことは確かに少なからず的を得ていて、今回の撮影のコンセプトは、疑似デート。読者がボクと二人きりのデートを楽しんでいる気分になれる様に、常にカメラ目線で恋人に向ける様な表情を、と言うのが現場での一貫した指示だった。新しく出来たショッピングモールをめぐったり、人気のカフェでランチを食べたり、海の見える公園を歩いたりと、いくつかのロケーションを巡る、早朝から丸一日かけての撮影だった。
「ふうん…自然な表情を作るって、ボクには割と難題だったんだけど、キミがそう言うなら、いい写真になってるってコトかな」
「はい、すごく! 雰囲気がやわらかくて優しくて、きっとこれを見た方も、藍くんとデートした気分になれると思います!」
そう言うと春歌は、目を輝かせながら、まだ飽きることなく同じページを眺めている。噴水のある広場でベンチに座ってアイスクリームを食べている写真。各ページに短めとは言えインタビューも載っているから、この分だと特集全部を読了するには相当な時間がかかりそうだった。
そんな春歌の様子を見ていて、浮かんだ疑問を口にする。
「ねえ、やっぱりキミもこういうデートに憧れる? 年相応のカップルみたいな」
すると、春歌は目を丸くしてボクを見た。本当は今までも気になってはいたけど、こんな風に直接的に訊いたのは初めてで、彼女も少し驚いたみたいだった。
例えば週末に予定を合わせて、着飾って街へ出て、テレビや雑誌で紹介される様なデートコースを、二人で手を繋いで歩く。そんなごく普通の過ごし方。ボクらにとって、それを実行するのは簡単なコトじゃない。ボクのアイドルと言う職業、そして事務所の恋愛禁止という掟が大前提としてある以上、人目は憚らなくてはならないし、時間だってそう頻繁には取れない。
ボクは答えを待ちながら考える。彼女がそれを望むのだとしたら、ボクだってそれを叶えたいけれど、ただ気持ちだけで行動に移すのは軽率以外の何物でもない。間違えれば、彼女が傷つくことになる。
春歌はしばらく黙って考えていたかと思うと、ボクの目を見て柔らかく微笑んだ。
「藍くんとならきっと何処で何をしても楽しいと思うので、そういう意味では憧れます。でもこうして藍くんと一緒にいられるだけでもわたしは嬉しいし、幸せですよ?」
何でもない当たり前の事の様にそう言って、春歌は雑誌のページをめくる。
普段は引っ込み思案で恥ずかしがり屋のくせに、こういう時は迷いがなくて。
何かあたたかいものがボクの心を満たしていくのを感じる。
「…キミには敵わないよね、ホント」
「?」
当の本人にはまるで自覚がなく、春歌は不思議そうにボクを見上げた。
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、だったらもう少しボクに構ってくれてもいいんじゃないの」
ボクは拗ねた様に言うと、油断している彼女の手を取り、細い指にそっと口づけて。
緊張で少し強張るその手を握ったまま、ボクは上目遣いでじっと春歌を見つめた。
「あ、あの」
戸惑う様子が可愛くて、ボクはつい顔が綻んでしまう。
「…ホントに、キミはすぐ真っ赤になるよね」
ボクはくすくすと笑いながら、彼女の手をゆっくりと開放する。
「もう、からかわないで下さい…」
「ボクを放置したのは事実だと思うけど。まあでも、今日は特別に許してあげてもいいよ。その撮影が上手くいったのも、実のところキミのお陰だし」
「え?」
「さっきも言ったけど、自然な表情っていうのがボクには曖昧でイメージがつかみにくくて、最初は全然OKが出なかったんだ」
ボクは苦笑する。カメラの前で自然な表情を作るなんて矛盾してるんじゃないかとも思ったけど、撮影のコンセプト自体は理解できるし、それに応じるのがボクらの仕事だ。
「そうだったんですか? でも全然そんな風には…楽しそうな表情もリラックスした表情も、とってもよく撮れていますよ?」
春歌は、誌面とボクの顔を交互に見ながら言った。
「うん。結構行き詰まってきて、どうすればいいかって考えた時、キミの事を思ったんだ」
「わたし…?」
「これがもし春歌とのデートだったら、二人でどんな話をして、キミはどんな仕草や表情をみせてくれるかなって想像してみたら、少しずつ分かってきて、それからはずっとレンズの向こうにキミをイメージしてたんだ」
撮影が順調に進むと、だんだん楽しむ余裕が出てきて、普通のデートって言うものをボク自身も疑似体験することが出来た。終わってみると貴重な体験だったかもしれない。
「何だか少しくすぐったい気分ですけど、嬉しいです」
春歌は顔を赤らめながらそう言って、次のページをめくる。新しい写真にまた驚き、目をキラキラとさせる。そんな彼女の横顔にボクは手を伸ばすと、その短い髪に触れる。
「…藍くん?」
時間が空いたからと言って急に連絡をしたボクもいけなかったのかもしれない。
だけどその時、ちょうど買い物から帰ったところだと彼女が言って、これから部屋に行ってもいいか訊ねたら、一も二もなく快諾してくれたから、ボクはこうして足を運んできた訳で。
それなのに春歌ときたら、ボクの隣で購入したばかりの真新しい雑誌を、穴が開く程、夢中で見ている。今日発売の、ハイティーンから二十代前半の女子向けの情報誌。音楽関係の雑誌や資料を読んでいる事の多い彼女には少しめずらしい選択だけど、彼女だってターゲットに含まれる層だし、それ自体に問題はない。
ただし彼女が釘付けになっているのは、他でもない、巻頭特集『美風藍・ミステリアス系アイドルのキミだけに見せる素顔」。
ページをめくる度に「あっ」とか「うわぁ」とか感嘆の声を上げる彼女を、ボクはどう表現したらいいか分からない、複雑な思いで眺めていた。普段なら言わなくても気が付く、空になった紅茶のカップ。それを皿の上に置く音にさえ、何の反応もなく。
「……………ねえ、春歌」
「あっ、はい!」
見かねてボクが声を掛けると、春歌は雑誌から顔を上げる。
「今、ボクが隣にいるコト忘れてたでしょ」
「いえっ、決してそんなことは…」
「それにしては、キミが雑誌を開いてから二分十七秒、ボクらの間に何の会話もなかったけど」
「そ、それはその何と言いますか…写真が素敵でつい見入ってしまって…すみません」
頬を赤く染めながらそんなことを春歌は言って、なおも雑誌から目を離さない。ボクの顔と誌面との間で、交互に視線を動かしている。
その様子に、ボクは大きくため息をついた。
「まあ、仕方ないよね」
「え…」
「キミは待ちに待ったその雑誌を、発売日にわざわざ書店に出向いてようやく手に入れるコトが出来た。一刻も早くそれを開いて堪能したい。その気持ちは分からないでもないよ。だけど、ボクだって仕事の合間に出来た貴重な空き時間に、せっかくキミに会えると思って楽しみにして来たのに、キミはそんなに写真のボクがいいの?」
「あああのっ、そういうことではなくっ! その、いつも見るお仕事の写真とはまた違った自然な雰囲気で、とっても素敵な表情だったのでつい夢中になってしまっただけです!」
春歌は必死になって弁解をする。
彼女が言うことは確かに少なからず的を得ていて、今回の撮影のコンセプトは、疑似デート。読者がボクと二人きりのデートを楽しんでいる気分になれる様に、常にカメラ目線で恋人に向ける様な表情を、と言うのが現場での一貫した指示だった。新しく出来たショッピングモールをめぐったり、人気のカフェでランチを食べたり、海の見える公園を歩いたりと、いくつかのロケーションを巡る、早朝から丸一日かけての撮影だった。
「ふうん…自然な表情を作るって、ボクには割と難題だったんだけど、キミがそう言うなら、いい写真になってるってコトかな」
「はい、すごく! 雰囲気がやわらかくて優しくて、きっとこれを見た方も、藍くんとデートした気分になれると思います!」
そう言うと春歌は、目を輝かせながら、まだ飽きることなく同じページを眺めている。噴水のある広場でベンチに座ってアイスクリームを食べている写真。各ページに短めとは言えインタビューも載っているから、この分だと特集全部を読了するには相当な時間がかかりそうだった。
そんな春歌の様子を見ていて、浮かんだ疑問を口にする。
「ねえ、やっぱりキミもこういうデートに憧れる? 年相応のカップルみたいな」
すると、春歌は目を丸くしてボクを見た。本当は今までも気になってはいたけど、こんな風に直接的に訊いたのは初めてで、彼女も少し驚いたみたいだった。
例えば週末に予定を合わせて、着飾って街へ出て、テレビや雑誌で紹介される様なデートコースを、二人で手を繋いで歩く。そんなごく普通の過ごし方。ボクらにとって、それを実行するのは簡単なコトじゃない。ボクのアイドルと言う職業、そして事務所の恋愛禁止という掟が大前提としてある以上、人目は憚らなくてはならないし、時間だってそう頻繁には取れない。
ボクは答えを待ちながら考える。彼女がそれを望むのだとしたら、ボクだってそれを叶えたいけれど、ただ気持ちだけで行動に移すのは軽率以外の何物でもない。間違えれば、彼女が傷つくことになる。
春歌はしばらく黙って考えていたかと思うと、ボクの目を見て柔らかく微笑んだ。
「藍くんとならきっと何処で何をしても楽しいと思うので、そういう意味では憧れます。でもこうして藍くんと一緒にいられるだけでもわたしは嬉しいし、幸せですよ?」
何でもない当たり前の事の様にそう言って、春歌は雑誌のページをめくる。
普段は引っ込み思案で恥ずかしがり屋のくせに、こういう時は迷いがなくて。
何かあたたかいものがボクの心を満たしていくのを感じる。
「…キミには敵わないよね、ホント」
「?」
当の本人にはまるで自覚がなく、春歌は不思議そうにボクを見上げた。
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、だったらもう少しボクに構ってくれてもいいんじゃないの」
ボクは拗ねた様に言うと、油断している彼女の手を取り、細い指にそっと口づけて。
緊張で少し強張るその手を握ったまま、ボクは上目遣いでじっと春歌を見つめた。
「あ、あの」
戸惑う様子が可愛くて、ボクはつい顔が綻んでしまう。
「…ホントに、キミはすぐ真っ赤になるよね」
ボクはくすくすと笑いながら、彼女の手をゆっくりと開放する。
「もう、からかわないで下さい…」
「ボクを放置したのは事実だと思うけど。まあでも、今日は特別に許してあげてもいいよ。その撮影が上手くいったのも、実のところキミのお陰だし」
「え?」
「さっきも言ったけど、自然な表情っていうのがボクには曖昧でイメージがつかみにくくて、最初は全然OKが出なかったんだ」
ボクは苦笑する。カメラの前で自然な表情を作るなんて矛盾してるんじゃないかとも思ったけど、撮影のコンセプト自体は理解できるし、それに応じるのがボクらの仕事だ。
「そうだったんですか? でも全然そんな風には…楽しそうな表情もリラックスした表情も、とってもよく撮れていますよ?」
春歌は、誌面とボクの顔を交互に見ながら言った。
「うん。結構行き詰まってきて、どうすればいいかって考えた時、キミの事を思ったんだ」
「わたし…?」
「これがもし春歌とのデートだったら、二人でどんな話をして、キミはどんな仕草や表情をみせてくれるかなって想像してみたら、少しずつ分かってきて、それからはずっとレンズの向こうにキミをイメージしてたんだ」
撮影が順調に進むと、だんだん楽しむ余裕が出てきて、普通のデートって言うものをボク自身も疑似体験することが出来た。終わってみると貴重な体験だったかもしれない。
「何だか少しくすぐったい気分ですけど、嬉しいです」
春歌は顔を赤らめながらそう言って、次のページをめくる。新しい写真にまた驚き、目をキラキラとさせる。そんな彼女の横顔にボクは手を伸ばすと、その短い髪に触れる。
「…藍くん?」