キミシカ知ラナイ
「お陰で撮影は順調だったし、キミには感謝してるけど…キミはそれで平気なの?」
ボクは春歌の顔をじっと見つめた。
「どういうことですか?」
「ボクは春歌が幸せそうに笑ったり、今みたいに照れて赤くなったり、そういう特別な表情は、他の誰にも見せないでボクだけのものにしておきたいって思うけど」
真面目で努力家で笑顔が可愛い、自慢の恋人。
誰に対しても優しく接するところは彼女の美点でもあるけれど、本当はいつだって一人占めしていたい、なんて。
子供かな。
「だから、時々考えるんだ。ボクがこういうアイドルと言う仕事をしていて、キミに嫌な気持ちさせてないかって」
「わたしは…」
春歌は少し困った様にうつむいて、考え込む。
「正直に言っていいよ。改善できるか分からないけど、知っておきたい」
どんなことでもいい。
ボクに叶えられることでも、そうじゃなくても、キミの想いなら全部受け止めたいから。
一人で我慢しないで、聞かせて欲しい。
「…あの、藍くんがわたしを心配してくれるのはもちろん嬉しいです。でも」
春歌はぐっと顔を上げると、真剣な眼差しでボクを見た。
「藍くんはわたしにとっても皆さんにとっても素敵なアイドルですから、ファンとしてはいろんな表情を皆さんにたくさん見て頂いて、知ってもらいたいです!」
春歌は拳を固く握りながら力説し、ボクは全く想定していなかったその返答に困惑して、頭を抱える。
「…………ええと」
そう。ボクは時々失念するけど、春歌はもともと、相当気合いの入ったアイドルマニアだった。彼女の部屋の片隅には…過去にファンだったアイドルの思い出の品が段ボール箱に詰められて、静かに眠っている。決して少なくないその物量が、彼女のコレクションのほんの一部で、実家にはさらに大量の品が保管されているという事実は、ボクを驚かせた。
「ボクは誰かのファンになったことがないから分からないけど、そういうものなの?」
「はいっ! アイドルは皆さんに夢や幸せを与えられる、素晴らしいお仕事なので!」
屈託のない笑顔を向けられて、ボクはますます複雑な心境に陥る。
こういう場合は、仕事に理解のある恋人だと、素直に喜ぶべきなんだろうか。
どこか釈然としないボクの隣で、春歌はさらに目を輝かせながら、
「わたしも、作曲家としてもっと成長して、藍くんのいろんな魅力を表現できる楽曲をいっぱい作って、皆さんにお届けしたいと――」
と、そこで春歌は唐突に言葉を切って、深刻な表情になる。
「…春歌? どうかした?」
ボクが訊ねると、春歌はひどくうろたえた様子で、首を大きく横に振った。
「いえ! 何でもないですっ!」
「あのさ、嘘をつくならせめてもっと上手くついてくれる? どう見たって何でもないって態度じゃないし。不自然に隠されると逆に気になるんだけど」
「だっ、ダメです! 絶対に言えません!」
春歌は雑誌で顔を隠しながら、断固として拒否する。
「キミって時々妙に強情だよね。素直に白状しないと、いろいろするよ?」
「い、いろいろって…?」
「聞きたいの? 好奇心旺盛だね。何なら今から実践してあげようか?」
ボクはにっこり笑って膝の上から雑誌を取り上げ、そして春歌の手首をつかんで身体を引き寄せると、その細い腰に手を回す。
「っ!」
「どうするの? 話す気になった? ボクは別にこのまま続けても構わないよ」
「う、わ、わかりました、言います! 言いますからっ!」
春歌が慌てながら言うのを聞くと、ボクは拘束していた腕の力を緩める。
「無理しなくても良かったんだけど。仕方ないね」
ボクは、耳まで真っ赤になって俯いている春歌の顔を覗き込んで、その額に軽く口づけた。
「あ…」
「今はこれくらいで勘弁してあげる。それで? 一体、何を考えてたの?」
「そ、それは…」
ボクが彼女を拘束していた腕を解きながら訊くと、春歌は恥ずかしそうに下を向いたまま、
「…もしも藍くんが、藍くんでもわたしでもない、他の誰かの作った曲を楽しそうに歌ってたら、すごく嫌かもしれないって思っただけです…」
それを聞いたボクは、堪えきれずに吹き出した。
「そんなに笑わなくたっていいじゃないですかっ」
「ゴメン、何だかすごくキミらしいなって思ったから。おかしくなって」
そうだった。
何よりも音楽が大好きで大切なキミにとっての「特別」。
絶対に譲れないもの。
「だけどそれは、キミが常に誰にも負けない最高の曲を書いてくれれば、万事解決だよね」
ボクが笑顔でそんな身も蓋もないことを言うと、春歌は複雑な表情で固まる。
「うう、頑張りますけどっ!」
「頑張るのは当然でしょ? 仕事なんだから」
ボクが冷たく言うと、春歌はそれを真に受けて深刻そうに下を向く。
そんな彼女の頭を、ボクはそっと撫でて、素直な気持ちを打ち明ける。
「なんてね。ボクだって、もちろん仕事だからいろんな類いのオファーがあるし、ボクの意向だけで全部を押し通すことは出来ないけど、ボク自身が真剣に想いを込めて歌うなら、他の誰でもない、キミの曲がいい」
「藍くん…」
春歌は顔を上げて、ボクをまっすぐに見つめる。
その瞳に吸い込まれる様に、ボクは顔を近づける。縮まっていくその距離があとわずかというところで、
「あっ!」
突然、春歌は何か思い出した様に胸の前で両手をパンと叩いた。
「あのっ、今ちょうど作っている曲があるんですけど、聴いてもらえますか? ぜひ藍くんの意見を聞きたいです!」
キラキラと瞳を輝かせながら、春歌は言う。
「…今?」
「だ、ダメですか? あっ、今日はあんまりお時間ないんでしたっけ…」
ボクが低い声で返すと春歌は見当違いな事を言いながら、考え込んでしまう。
確かに、夜はラジオの収録があって夕方には出ないといけないのはあらかじめ彼女に言ってあるけれど、ボクが脱力してため息をついている理由は決してそういうことじゃない。
彼女自身はきっと何の悪気も思惑もなくて、音楽の事になると周りが見えなくなる、ただそれだけのことなんだけど。
ボクが返答しかねていると、機嫌を悪くしたと思ったのか、彼女の勘違いはさらに進む。
「そうですよね。ごめんなさいわたし、藍くんの都合も考えないで…あのでも、今度また時間がある時、本当にいつでもいいので!」
春歌は何かに祈る様に必死に、顔の前で両手を合わせて懇願し、ボクは思い切り深くため息をついて、ソファの背に身体を預けた。
「まったく、勘弁してよね」
「すみません…」
春歌は両手を緩めて膝の上に置くと、俯いて黙り込む。
「何、もたもたしてるのさ」
「え」
「時間は限られてるんだから、早く準備したら?」
ボクが急かすと、春歌は驚いた様に目を丸くする。
「! それじゃ…」
「可愛い彼女のお願いを聞くのも、彼氏の務めでしょ?」
そう言ってボクがにっこり笑って見せると、春歌は頬を赤く染めて。
それから、たちまち明るい表情に変わる。
「あ、ありがとうございますっ!」
「その代わり、評価と指摘はいつも通り遠慮なくさせてもらうよ。甘やかしたりは一切しないから、そのつもりでね」
「はいっ! お願いしますっ!」