散りゆく僕ら
疑問を抱いたまま掛けてあるタオルで身体を拭き、脱衣所に戻る。
備え付けのドライヤーを取ろうとしてようやく、違和感の正体に気づいた。
――ドライヤーが取り付けられている壁の横に同じく取り付けられている筈の鏡が無い。
洗面台正面の壁には不自然な空間が余っている。焦って部屋を見渡すと、床の角には取り除き逸れたのであろう鏡の破片が小さく光って見えた。
「――え?」
どうして、鏡が無い?そういえば部屋の中にも鏡なんて無かった。
外見に頓着が無いだけならわざわざ鏡を割るなんてしないだろう。洗面所備え付けの鏡だ。意図せず割れるものでもない。ずっと引っかかっていた違和感の正体はこれだったのか。余りにも見慣れた部屋の中では気付かなかったが。
あの人らしくない行為の名残に身体の熱が一気に冷えて行くのが分かった。
無意味にそんなことをする人では、ない。どうして。何があった?
デザーム様のところへ行かなきゃいけない。
そう思ったらドライヤーのことなんてどうでもよくなってしまって、パジャマのボタンを閉めることももどかしく早足でベッドルームに向かった。
「デザーム様っ!」
「うわっ、何だゼル、ろくに髪も拭かないで……っ」
「デザーム様、なんで、洗面台の鏡割ってあるんですか?」
「……っああ、まあ……この間うっかり、な」
デザーム様らしくない、曖昧に濁すような台詞。
動揺が隠し切れていない様子はやはり、ただ事じゃあない。
「うっかりで割れる訳無いじゃないですか」
少しだけ強く言うと、デザーム様の肩がびくりと跳ねた。
顔を覗き込むと、色の変わった目を反らす。
逃れられない様にベッドの上に置かれた指に掌を重ね、俺のよりも少しだけ大きい手を握り込む。
その行為を咎めようと此方に向けてきた目線にも怯まず、逆にじっと見つめ返すと、デザーム様は観念したように一つ溜息を吐いてぽつりぽつりと言葉を重ねていった。
エイリア石の影響が身体に及ぼす影響が能力も見た目も、自分は突出していること。
伸びる速度が異常に早い頭髪、耳の変形、犬歯も伸びてきている上に、眼球が考えられないような色に変わっていくこと。
鏡を覗く度にその影響を見せつけられて、あの石の力に全て頼りきっている弱い自分をまざまざと思い知らされること。
そこまでのことを口にして、デザーム様、いや――砂木沼さんは震える唇を閉ざした。
重ねた手も僅かながら震えている。見た目の表情は変わらない様に見えるが、自分の意思とは無関係に反応してしまう身体までもは取り繕えない。
こんな、こんな苦しい思いをずっと一人で背負ってきたのだろうか。誰にも言えずに、一人きりで。俺がいるのに。
泣きそうになった。そんなことも気付けなかった自分の不甲斐無さに。
彼の身体能力の向上が著しいことはただ――羨ましかった。
外面の変化はただ――美しいと思った。
愛しい人が一人で抱え込んでいるのも気付かず、自分勝手に分かった気になっていて。
「砂木沼さんは……弱くなんかないです」
「っゼル、私は……」
「エイリア石を使っていたって、砂木沼さん、いっつも練習してるじゃないですか。本当はFWなのに、残ってGKの練習までしてっ……ずっと、一人で抱え込んでっ、どこが弱いんですか!!」
後半は、涙声も混じって殆ど叫ぶようになっていたと思う。
此処ではエイリアネーム以外で呼ぶことは許可されていない、それでも、彼の大好きな名前を呼ぶ。確固とした彼の存在を確かめるように。
「俺、おれっ、砂木沼さんがどんな見た目になっても、ずっと、ずっと大好きです。あいしてます」
抑えきれなくなった涙が零れた。
一回り大きいパジャマに塩辛い雫がぽたり、ぽたりと落ちて染みを作る。
「砂木沼さん、俺、砂木沼さんの全部が好きです。目も、犬歯も、耳も、髪の毛も、“デザーム様”になった後も、変わる前も、全部」
「……っ隆一郎」
砂木沼さんが薄く目に涙を溜めて、俺の事を“名前”で呼んだ。
心臓をぎゅうと掴まれたような気がして、かあっと顔が赤くなる。
「それとっ、耳ならほら、俺も同じですよ!」
それを誤魔化すように、掴んでいた手を己の耳に触れさせる。
まだ“デザーム様”のようには尖っていないそこも確かに変容してきていて、確かめるように、それでもどこか遠慮がちに触る砂木沼さんの手が心地良い。
真剣な面持ちで耳を一通り触り終えると、
「……本当だ」
と、一言、そう言って彼はふわりと笑った。
これを守る為になら、俺はエイリアンでもクリーチャーにでもなってやる。化け物と罵られても構わない。
それは本当に久しぶりな、“砂木沼治”の本物の笑顔だった。