As you wish / プロローグ
ああ、ぞくぞくする。どんな少年だろう、どれほど普通じゃないのだろう。いっそものすごく普通の少年だったとしても、それはそれで面白い。今の吐息は好み だ。息に好みなんかあるのかと聞き返されたら笑ってやる。自分は吸血鬼だ、人間じゃない。だからこそ人間の息使いや、血のにおい、汗のにおい、唾液の味に さえ敏感なのだ。
そんなことを臨也が思っているとは知らないだろう少年が、そっと臨也に向かって手を伸ばした。生ぬるいタオルがどけられる。代わりに、新しい、冷えたタオ ルが載せられるのだろう。
手のひらが近づいて影になった瞬間、すん、と鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。手首も血管が分かりやすくて、血のにおいを拾いやすい。
だがしかし、このとき匂いを嗅いだ事を、臨也はそれから先何度か後悔し、何度か絶望し、そしてその何倍も幸運と思い、信じもしない神に祈る羽目になる。
少年の。
血の匂いが。
脳に到達した瞬間。
「・・・っ、やっ・・・なに!?」
わけがわからなくなった。
意味もわからなくなった。
真っ白になった。
臨也は、そのとき、考えると言う行為を忘れていた。
体が動かなかったんじゃなかったのか?
分からない、ただ、気付いた時には。
「っあ、痛、ぁ、うあっ」
目の前に白い首筋があった。
かぶりつきたくなるような首だと思った。すでにかぶりついていることにも気づいていた。
少年の血が臨也の舌をなめらかな葡萄酒のように、しみこむ水のように、のどを刺激する炭酸飲料のように、まろやかなお茶のように、もしくはそんな安っぽい どの飲料とも全く違う、未知の味であるかのように、すさまじいインパクトで臨也の味覚を支配していく。
侵食される、と思った。
血を奪っているのは自分のほうなのに、その、好き好んで飲んでいる血に自分を支配されると思った。ヤバイヤバイやばいやばいやばいなにこれなんなのこんな のしらないこんなのいままでいちども、
「・・・っ、」
急にとまった抵抗にはっと我に返った。
恐る恐る首筋から顔を上げると、腕の中で少年がぐったりと気絶している。
「・・・げ」
まさか、死んだ?そんなに吸ったような気はしてなかったんだけど。一瞬、ざっと血の気が引いたのは、さっきの未知の味を思い出したからだ。あれは今までに 味わったことのない類の物だった。あれを作り出すこの子が死んでしまったら、あの血はどうなってしまうのか、と、そんなことを心配した。
つ、と少年の首筋に赤い線が引かれる。臨也の歯型からこぼれ落ちた、脳神経をむしばむくらいの芳香を放つ、血が。
勿体ない。
音を立ててそれに吸いついた。脈打つ鼓動をその時感じて、良かった生きてる、と安堵する。けれどもこれ以上は今日は無理だろう。人間は脆い。今生きていて も次の瞬間死ぬかもしれないのだ。こんなにおいしい子を死なせるのは本意ではない。勿体なさ過ぎる。
「ごめんね?」
聞こえない謝罪を口にして、臨也は立ちあがった。体中の痛みも、のど元の渇きも、全身を包んでいたけだるい熱さえ、どこかへ吹き飛んだようだった。よけた ベッドに、今度はその子を寝させて、臨也はさてどうしようかと考えた。
考えるまでもなかった。
すでに自分は、彼の血に囚われている。
しかも、望んで。
臨也は客観的に自分をそう分析し、心からの楽しげな微笑みを、うっすらと浮かべた。
作品名:As you wish / プロローグ 作家名:夏野