第三部2(102) 亡命
「お前…何言ってるのか…自分が何しようとしてるのか…分かってるのか?」
激昂するアレクセイの様々な感情、戸惑い、驚愕、そして怒り…、それらの感情をユリウスはあくまで冷静に受け止める。
「分かってるよ。多分…あなた以上に…」
― ねえ…。お願い、落ち着いて聞いて?アレクセイ。…座って?
ユリウスの静かな声に、アレクセイは無言でストンと腰を下ろす。
「この国が…レーニンの死後おかしな方向へ、静かに…だけどものすごいスピードと有無を言わせない圧倒的な力で進んで行っているのは、もうとっくに…ぼくらがフランスでの任を解かれて…ラトビア赴任となったときから薄々気づいていた。そしてその事は…他の党員の妻たちも皆一様に感じていた。…ぼくたち古参の党員妻は、ぼくのように外国赴任になっている人間や国内にいる人同士で国の内外から情報を交換し合って、この国の進む未来をじっと見定めていたんだ。いよいよこの国の…あの組織の内情がやばくなってきて、ぼくの古い友人知人たちの多くが国を脱出したよ。ぼくは当分の間はここラトビアで国の組織の中枢から距離を置いていたし、そんな古い仲間たちが次々と国を出ていくのを、暫くは静観していた。それに…ぼくにはやることもあったしね。いよいよ駄目だ…もう猶予がないと国を捨てる決心を固めたのは…半年程前。実は匿名でズボフスキーから手紙を貰ったんだ。…それは党員も知らない…古参の党員妻…それも一部の支部の党員妻の間で使われていた古い暗号で書かれていた。…きっとガリーナから教えて貰ったか…彼女が代筆したんだろうね。そこには恐ろしい…おぞましい事が書かれていた。そして「今度の帰国要請には絶対従うな。一日も早く国を捨てて安全な国へ逃れるんだ」と書かれていた。今度国内へ帰ったら、…その時がアレクセイと…ミハイロフ一家の最期だとぼくは確信した。それで、一刻も早くネッタを国外へ出す算段をした。幸い…アルラウネが保護者としてあの子について行ってくれたのは…一石二鳥だった。それからぼくら…ぼくとベルギーにいるミーチャに協力してもらって…、亡命の手続きを整えた。ねえ…アレクセイ。ぼくは今まであなたの進む道に、一度だって反対した事なかったよね。この国へ来てから…どんな時もどんな状況でもあなたの突き進む道を信じて、あなたについて行った。…でも、今度ばかりは、それは出来ない。今度だけは、お願いだからぼくの意見を聞いて。あの国は…あの組織はもう堕ちるところまで墜ちてしまった。今中枢にいる彼らはもうあなたの声には一切耳を傾けない。…それどころか、声を上げるあなたの存在ごと抹殺しにかかるだろう。アレクセイ…お願い。今度だけは、今度ばかりは、国よりも…ぼくの…家族の声を聞いて」
語り終えたユリウスの碧の瞳に、―出会った頃の少女の時と同じ美しさの、しかし年輪を重ねて成熟し知性を湛えた彼女の碧の瞳にアレクセイは囚われたように言葉を失い茫然となる。
― 返す言葉がない。
それが真相だった。
ユリウスの言葉は一貫して真実を語っており、全くもって異論を唱える余地がなかった。アレクセイが…国を想い新しい国のために全てを捧げて生きてきたからこそ、その思い入れゆえに、敢えて目をそらしていたことを全て目の前の妻に突き付けられ、返す言葉もなく肩を落とし項垂れた。
そしてやっと絞り出すようにして発した一言はユリウスを凍り付かせた。
「やっぱり…お前は、外国人なんだな…」
こんなことを言ってはいけない。外国人でありながら誰よりも長年この国の変革に貢献し続けたこの糟糠の妻に決して言ってはならない…分かっていたが、アレクセイはその言葉が口から出るのを止めることができなかった。
目の前の妻から発せられる、とてつもない落胆と悲しみの感情がアレクセイを突き刺す。
「外国人だからこそ…見えるものもあるんだよ。ねえ、アレクセイ。この国が再び浄化するまでには長い長い時間がかかる。それは…今じゃないんだ。アレクセイ…残念だけど…、今あなたがこの国のために出来ることは…もうないんだよ」
アレクセイは静かに語り続ける目の前のユリウスの顔を見ることが出来ず、項垂れたまま身じろぎもせずそれを聞いていた。
「アレクセイ…」
そんなアレクセイに尚もユリウスは優しく呼びかける。
のろのろと顔を上げたアレクセイに、静かな、しかし悲しそうな笑みを浮かべたユリウスが話を続ける。
「まずはロンドンへ…ネッタとアルラウネのいるロンドンへ逃れて…それから身の振り方を考えよう。ね?」
ユリウスの飽くまで優しい語りかけに、アレクセイは力なく、無言で頷き、リビングを退出した。
そんな夫の悲し気な背中を、やはり沈鬱な顔でユリウスは見守っていた。
そして―、その数日後。
ロシア革命の立役者にして現ラトビア領事、アレクセイ・ミハイロフ、そしてその妻ユリアは、ロンドンへと亡命を果たした。
作品名:第三部2(102) 亡命 作家名:orangelatte