第三部4(104)1934年 ポスキアーヴォⅠ
ネッタとアルラウネのいるイギリスから…パリにいた頃お世話になったシニョール・ルカーリの伝手で、ここポスキアーヴォに新居を求めて、移住してきた。
ここに新居を構えることを決めたのは…ムッターだよ。静かな自然の美しいここならば、祖国の変革に挫折して傷ついたファーターの心もゆったりと包み込んでくれるかと思ったから。ここで自然に囲まれて…大好きな釣りでもして…傷ついた心を癒してほしいと思ったから。…それに、万が一チェーカーの追跡がかかっても、ここならば…こんな山合いの地方都市ならば追跡の手が及ぶことがないと思ったから。。。。
幸いこの街に一つだけあるドイツ系の会計監査法人で事務仕事を募集してたから、働き口も得ることが出来たし…。二人だけでつつましく暮らすならば、ムッターも少しは貯金もあるし…おばあ様から形見でお譲り頂いた宝石類を処分して当分はムッターの収入だけで生活することが出来たのだけど・・・・。
「出来たのだけど?」
ねえ、ミーチャ。あなたが子供の頃通っていた教会の学び舎、覚えてるかな?あそこに身寄りのない子供たちが生活していたでしょう?…ムッターね、あの国が革命後おかしな方向へ進み始めてからね、あそこの神父様と協力して、子供たちを少しずつ「出稼ぎ」という名目で国外で逃していたんだ。働ける年齢になった子供達から少しずつ…。その活動はあの教会の子供達から…やがて一般の市井の人達へと広がって…、ラトビアにいた頃からだから…今は…どのくらいになるのかな。国外へ逃した人は100人は下らないと思う。
初めて知る母親の告白に思わず息をのむ。
「それって…」
「うん。亡命の手引きだね…。もし共産党の上層部にばれたら…即処刑だね」
「もしかしてムッター…お金に困窮していたのは…」
ミーチャの問いかけにユリウスが目を伏せて頷いた。
「首尾よく国外へ逃れることが出来ても…皆身一つで故国を出るから…当面の生活の支援は必要だし…。それに…ここ数年で、亡命を希望する人が倍増していて・・・・それで…。ごめんね、ミーチャ…」
母親がその先を言いよどむ。
― そうだったのか…。だから…。
母親の告白にミーチャは言葉を失った。
「…ねえ、ファーターは…この事を知っているの?」
ミーチャの問いかけにユリウスが首を横に振る。
「家計を一人で支えて、ネッタの学費を捻出して…それで難民支援まで…。ムッター、いくら何でも…一人ではそれ以上は無理だよ。ねえ、ムッター。食べるものも食べずに…こんなに痩せてしまって…。ねえ、なんで?なんで、ムッターだけがそんなに身を削ってまで…」
思わずミーチャが激昂する。
「…満足に食べられないのは…辛くない。そんなの慣れっこだし。…おばあ様の形見や髪を売るのも耐えられる…。ただ、誰も自分の事を理解してくれないのが…いくらこちらから語りかけても無関心でいられるのが…、自分の声が届かないのが、何よりもつらかった。…あなたが、ミーチャが聞いてくれて、それでムッターは救われた…。また…まだこれからも…ムッターは頑張れる…」
息子の両手に縋りつき、再び涙を流しながらそう訴えた母の細い身体を支えてあげる事しか出来ることはなかった。
一頻り息子の腕の中で涙を流したユリウスが、顔を上げて涙に濡れた頬のままにっこりと微笑む。
「ありがとう…ミーチャ。せっかく来てくれたのに…ろくすっぽもてなしてあげることも出来なくてごめんね。…これから、また仕事なんだ。キッチンにパンと作り置きのおかずとスープがあるから食べて。それから…二階に客室を用意してあるから、ベッド使ってね」
そう言って、昔のように優しくミーチャの頬にキスすると、ユリウスは外套と帽子を身につけ、日が落ちた薄闇の中を出かけて行った。
作品名:第三部4(104)1934年 ポスキアーヴォⅠ 作家名:orangelatte