桜恋う月 月恋うる花
確か、壬生村の八木邸と前川邸が新選組の屯所になっていた筈。
土方さんがここまで抱えてきた千鶴ちゃんを漸く降ろした。
目立たぬように平隊士の目を避ける為か、静かに裏門を潜る。
「総司。事の顛末と、千鶴を伴っている事を、近藤さんに伝えてくれ。斎藤、みんなを広間に集めろ。千鶴、神矢。お前達は俺と一緒に一足先に広間だ」
「了解」
「御意」
沖田さんが走り出し、斎藤さんが踵を返す前にそっと近付いて引き止める。訝しそうな表情をした斎藤さんに、千鶴ちゃんには聞こえないように小声で告げる。
「今夜の一件が新選組と関わりがある事に気付いていないので、千鶴さんの前では話を持ち出さないように皆さんに注意しておいて下さい」
はっとした表情をした斎藤さんは、こくりと小さく頷いた。
「承知」
斎藤さんの了承を聞いて、私は土方さんと千鶴ちゃんの後を追った。
広間に着くと、土方さんは自分の隣に千鶴ちゃんを座らせた。何かあった時にはすぐに守れる位置、というやつね。
これは相当親しい関係と見て良いようだわ。でも恋愛感情まで発展してないな。大切な妹分てところかしら。
「千鶴さんが土方さんや近藤さんと懇意だとは存じませんでした」
知り合いレベルがどれくらいか把握しておかないと。マイ設定に修正を入れる必要が出てくるかも知れないから、ここは押さえておかないとね。
それに土方さんにストップを掛けられる前に把握してしまいたいから、先制攻撃といきましょうか。
「沖田さんは面識がおありにならないご様子でしたけど?」
微かに土方さんの眉が寄る。
私の意図に気付いているのかも知れないけど、ここは千鶴ちゃんの純真さを利用させて貰います。
そう思っていたのだけれど、思いがけず、答えは土方さんから返された。
「ああ、もう十年近く前に迷子になった千鶴と会ったのが最初だったからな」
「まぁ、そんな昔から?」
微かに探るような気配を纏った土方さんの視線にも、動じる事無く自然に言葉を返すくらい、私には造作もない。
腹の探り合いなら、新選組を束ねている土方さんを相手にしても、負けないだけの自信は持っていますからね。
土方さんは本来真っ直ぐな気性の人。真っ当な土方さん相手に後れを取るようでは、捻くれ捩れきった一族の連中に付き合うなんて出来ないもの。
「迷子になった私を、父の訪れていたお店まで届けて下さったのですけど、歳兄様ったらお名前も教えて下さらなくて。お礼にも伺えないと、父が零していました」
新選組の鬼副長でない土方さんは優しい人だものね。思わず柔らかな笑みが浮かんでしまう。
「その後、出先で具合を悪くされた近藤さんを、医者に診せようとした歳兄様が訪れた診療所が父の診療所で、それ以来時折近藤さんや歳兄様が訪れてくれるようになっての付き合いです」
嬉しそうな千鶴ちゃんを、土方さんも目を細めて優しく見つめている。
「そうでしたか。……訊き難い事で申し訳ないのですけど、千鶴さん?」
「はい?」
「貴女のお母様は……」
いないのは判ってる。
千鶴ちゃんに記憶があるかないか。マイ設定でも、この先現れるだろう南雲薫の対処にも必要な事だから確かめておかないと。
「母はおりません。この小通連は母の家に代々伝わる家宝だといわれて大事にしてきました」
小太刀を抱きしめるように手に取る千鶴ちゃんの様子は、たった一つの母の形見に縋ってでもいるようだ。千鶴ちゃんの様子に隠している気配はない。原作通り、千鶴ちゃんには自分が鬼だという記憶も、一族を滅ぼされた時の記憶もないと見て良い。
「お辛い事を訊いてしまいましたわね、ごめんなさい」
「いいえ」
ふわりと笑う。
この全てを癒すような柔らかな笑顔は、千鶴ちゃんの持ち味よね。
土方さんの手が、宥めるように励ますように千鶴ちゃんの頭を撫でる。
ちょうどそこへ幹部達が集まってきた。
初めに広間に足を踏み入れたのは永倉新八で、千鶴ちゃんの頭を撫でている土方さんに目を丸くしている。
「おい、平助。そんなど真ん中で止まるなよ」
声もなく土方さんを凝視しながら無言で足を進めた永倉さんの後ろに続いていた藤堂平助は、足を止めてぽかんとして土方さんを見ている。
平助君に声を掛けたのは原田左之助の美声。
「だってさぁ、左之さん」
平助君に返す原田さんは、平助君の視線の先を見て困ったように眉を下げてる。
「気持ちは判るが、後が支えてるんだよ」
三人の後から山南敬介と井上源三郎が続く。年上組は若者組ほどに驚いてはいなかったけれど、感心したような表情をしていた。
「ガキに優しい土方さんなんて初めて見た」
ぼそりと呟く平助君の声に、永倉さんが同意を示すように無言で頷いている。
「いや、ガキっつってもな……」
言葉を濁しながらも、千鶴ちゃんの性別を把握しているらしい原田さん。
ふうん。
お約束通り、男装してるだけで平助君と永倉さんは千鶴ちゃんが女の子って気付かないわけね。
呼び出された幹部が腰を下ろした頃、沖田さんが顔を出す。
「近藤さん、すぐに来れないから、雪村君は風呂を使ってくれって、伝言だよ」
「え、でも……」
遠慮している千鶴ちゃんに、土方さんが諭す。
「近藤さんに会うのも久し振りだろう? きちんとした方が良くないか?」
土方さんの顔を見上げる千鶴ちゃんを促すように、沖田さんが毒舌を炸裂させる。
「そうそう。泥塗れで野良犬みたいに薄汚れたまんまじゃ拙いでしょ?」
「野良犬……」
あんまりな言い草に千鶴ちゃんが言葉を失くす。
「それでは頂きます。あ、神矢さんも……」
「生憎着替えがありません。お気になさらず。貴女と違って、私は転んでも汗をかいてもいませんからね」
にっこりと、態と嫌味を込めて言えば、千鶴ちゃんは困ったように眉を顰めて肩を落とした。
「……はい」
「斎藤。案内と、見張りを頼む」
「御意」
後ろ髪を引かれる思いがあるように、千鶴ちゃんは何度か振り返りながら広間を出ていった。
「で? 俺達を集めた本題はそいつ?」
千鶴ちゃんの影が見えなくなった途端に口を開いた平助君に顔を向けて、唇の前に右の人差し指を立てる。
「?」
完全に足音が消えて千鶴ちゃんの耳に会話が届く事のない距離まで離れてから、私は居住まいを正して上座を向いた。
作品名:桜恋う月 月恋うる花 作家名:亜梨沙