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げつ@ついったー
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今桜詰め合わせ

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疼き恋



彼の世界は、もう長く色を知らない。心がほっと温かくなることとか、ある瞬間すうっと冷たくなることとか、重くなったり、軽くなったり、大きくなったり、小さくなったり、心を感じることができなくなったある日から、彼の世界は色を失った。『心が行方不明になったんです』、昔医者はそう云った。そのとき彼は怒るでも悲しむでもなく、ただこう思った。『ちがう、心はここにある。・・・たぶん、心は死んでしまったんだ』。心の入れ物たる彼の身体は、それを厳然たる事実として認めた。
あのときから、彼は本当は何も見ていない。何も聞いていない。何も食べていないし、何も感じていない。
彼はそのことをひた隠してきたけれど。


―――せんぱいに、笑って、ほしくて。
見破られる日は来ないと思っていた。でも同時に見破ってくれる人間が出てくるのをずっと期待していたような気もする。今吉は頭の隅でぼんやりと思う。気の弱い恋人はその一言を云ったきりすっかり滂沱の体でその大きな瞳から涙を零しては、「すいません、すいません、」としゃくり上げている。今吉は不思議だなあと、理解のできない教科書を読むような感覚でそれを見ている。
今吉の胸の奥に、少しだけ、ほんの少し、本当に鈍い感覚が拾い上げる『何か』がある。怒り、悲しみ、焦り、哀れみ、愛しさ、嬉しさ、せつなさ……―――?何かは分からない。この中の何かであるのか、あるいはこの中の何でもないのか。自分の脳みそがビニールか何かで覆われているように、その『感情』と呼ばれる類のものが今吉の脳にダイレクトな刺激を与えたことは、もう久しくなかった。
「桜井、何で泣くん?」
「…っすいませ、………」
「なあ、泣かんといてぇな、……なあ、桜井、」
俺にどないせえ云うん?
なぜ泣くのか分からない。どうやって泣くのか分からない。でも別に泣きたいとも思わない。
いつでもどんなときでも、どんな感情でも今吉は同じ感情を持っている。ミリ単位でさえ変わらない、もうきっと元に戻ることはないであろう、凍りきってしまった、彼の『こころ』。
「分からへんよ、なんも分からん。俺は全然分からへん、お前が何でそんなぶっさいくな顔で泣いとるんか」
鈍い頭で考えて、それでも桜井を見つめ続けることしかできない。
今吉はわからない。何をすればいいのか、何をすべきなのか。

彼の世界はもう長く色を知らない。
ある日彼のこころは突然ぐしゃりと潰されてしまった。こころがどんなものかは分からないけれど、骨組みが折れて肉を裂き、血がたくさん吹き出て、呼吸ができなくなった。それくらいの痛みが彼を襲った。辛くて痛くて死んでしまいそうで、こころはからだを守るために、動きを止めた。自らホルマリン漬けになって、痛みを忘れた。
痛みを忘れた心は軽い。空っぽで、何もない。
彼の世界は色を失って久しいけれど、それを悲しいと感じるこころさえ、すっかり麻痺してしまっているのだ。

「僕は、」
あなたに笑ってほしい。うそじゃなく、こころから、笑ってほしいんです。
桜井は云う。彼の笑顔は偽りで、彼のこころは眠っているだけだと、桜井は信じて疑わない。だから毎日、彼は今吉を見ている。季節の彩りを考えて手を尽くしたお弁当で彼に笑いかける。いつかそのこころが息を吹き返すと信じて。
「・・・ジブン、泣いて終わりかもしれんで」
「いいんです」
ただあなたに尽くせることが、嬉しいんです。


彼の名は春の香を纏って、冬に死んだ自分を待つのだと云う。いくら春が追い縋っても、いくら冬が春に焦がれても、廻り逢うことなど不可能だというのに。そんなに気丈に笑われては、どうしたらいいのか、分からなくなってしまう。熱をはらんで毒をうむその傷が、どうせ癒えぬというのなら、それならこんなに惨めで冷たい自分なんか置いていってしまえばいい。どうせこの疼く恋が叶わぬのなら、

嗚呼、どうか早く早く、彼が枯れる前に俺なんか置いていってしまえばいいのに。



(卯月、来い)



(2010-03-15)