最悪で最良な選択肢
「最悪さ」
怪訝そうに移動するラビの足取りは重たい。
頬に貼り付けられたガーゼをゆっくりと手のひらで撫でるが痛みで顔を歪めることはない。ただ溜息を漏らすばかりだった。
ブックマンとともに任務を終え教団本部に戻ってきたものの、エクソシストとしての立場に主軸を置き過ぎたせいか怒らせてしまった。貴様はまだまだ未熟だ、甘いといつになく厳しく叱られてしまったものの、自分自身きちんと反省の色を示したつもりだ。
黒の教団に身を置いて早数年、この場で出会った仲間とも呼べる存在に心を寄せ過ぎてしまったと頭の中では充分に理解をしているのだ。裏歴史を記録するのが生業のブックマン一族は仲間などいらない。仲間などと呼ばれる存在はただの紙上のインクに過ぎないと──。
しかしいざ戦闘となると頭よりも先に体が動き、仲間を守るべく奔走してしまうのだ。己の心が弱く、まだブックマンになりきれていないのだとラビ自身は気付いている。師匠であるブックマンに指摘されずとも分かりきっていたことだった。
遅かれ早かれ黒の教団から退かなくてはいけない時期が来る。いずれノア側につき裏歴史を記録しなくてはいけない未来が訪れるだろう。
その時のため、エクソシストたちと交流を深め仲間と呼べる存在になってはいけない。
ブックマンとは何者にも属さず裏の歴史を記録する者。それ以上でもそれ以下でもないとこの身に刻み付けていたはずだった。
それでもなおブックマンと衝突を繰り返してしまうのは、未だに染まりきれていないからだろう。人生を懸けて全うしなくてはならない役割に。
だがこの黒の教団に身を置きブックマンではなくエクソシスト、ひとりの人間へと変わってしまったのもまた拭いされない事実。
任務地へと赴く度に深まってしまう絆。開き許してしまう心。漏れる笑顔の数は過去の比ではない。
心に変化が生じてしまったからだろう。
インクではなく仲間どころでもない。それ以上の存在になってしまった。愛を囁く仲にまで至ってしまった。恋心が報われたところでいつか後悔をすることになると理解しながらも、彼に心を奪われてしまったのは己の弱さのせいか。
「アレン、今日はお前の部屋で寝てもいいさ?」
就寝間際の来訪にも関わらず扉を開けてくれるアレンの元へと帰ってしまうのだ。
こういうところもまたブックマンを怒らせる要因のひとつなのだろう。怒りを制御できない子供のようにブックマンの元を離れ、一時的な仲間であるはずの人間が休んでいる場所へと逃げていく。
その都度アレンとの距離が近付いた現実すらもブックマンが把握しているとは限らないが、歴史の傍観者としては許されざる行為だ。紙上のただのインクと身を交じらわせるなどあってはいけないことだと、アタマでは理解しているはずだった。
この身にアレンの温もりを知るまでは。
「ラビ、またブックマンとケンカでもしたんですか?」
「……うっせー」
「子どもですね」
「オレが子どもなら、アレンだって充分に子どもさ」
深い事情を聞くこともなく部屋に招き入れてくれたアレンを強く抱きしめた。
彼を抱き留めるとほんの僅かではあるが解消されていく苛立ちの正体を話したことはない。ブックマンという立場だからこそ抱く負担や不安、怒りを理解されることも同情されることも望んでなどはいなかった。
恋人に対し、隠し事をしていることにはなってしまうが全てを聞き出そうとしないアレンだからこそなのだろう。何も言わずに抱きしめ、抱きしめられる穏やかな時間が尊いものになっていた。
何も話さずにいた結果でもある、アレンからかけられた「子どもですね」の言葉を否定するつもりはない。
「とっとと部屋に戻ったらどうですか。ラビがいうように僕が子どもだとするならば、僕は部屋を貸しませんからね。子どもは早く寝なくてはいけませんから。ラビに構っている時間はありません」
「そんなこと言わないでほしいさ」
本心でないとはいえ、アレンの突き放すかのような物言いに肩を落としてしまったのは、彼の前であれば今はない幼き日の自身をさらけ出せそうな気がしたからだった。
だが幼い頃から戦場に身を置いてきたラビの記憶には子どもらしく振舞ってきた過去はひとつもない。同世代の子どもと関わっていた時代でさえも、彼らの中に溶け込めるよう努力をしてはいたものの、非情になりきるため子ども心を喪失するべく努めてきた。彼らのように見せるための過去の言動はあくまでも演技だ。
しかし今になっては決して演技ではなく、周囲に馴染むためでもない。子どものように時に我儘をいい、不貞腐れた態度を取るまでになってしまったのは自分が大人になったからなのか。成長をしたことで意識せずとも他人によく思われよう、距離を詰めようと行動をしているのか。または幼い頃と比較してもブックマンの後継者としての意識が薄くなってしまったからなのか。ラビには分からなくなってしまっていた。
「お願いさ、アレン」
ラビはアレンの耳元で優しく囁き縋る。
我儘ともとれるほど素直に甘え、自分の感情を押し通すような真似をアレンならば許してくれるだろう。
それさえもが自分勝手な欲だがひとりの人として愛してしまった彼には知って欲しいとさえ願ってしまった。49番目の名前を背負いブックマンとして生きてきた自分自身の中に確かに存在している、‘ラビ’という人間を愛し、受け入れてくれると思いたかった。
立場から生じる細かな感情を知られたくはないラビだったが、この身に芽生えた愛情だけは理解をして欲しい。
今はそれだけ。
「──アレン」
ブックマンにあるまじき感情に突き動かされた後の結末を記憶する必要はない。ただ脳裏に刻みつけておきたかった。49番目の名前を捨てブックマンとして生きていかなくてはいけない時期がいつ訪れてしまってもいいように、この身が愛した男がいたという事実だけは胸に残していたいとさえ願う。
そう考えてしまうのがブックマン──パンダじじいのいう甘えのひとつなのだろう。
「なぁ、アレン…………オレは」
「ら、ラビ? どうかしたんですか、いつものラビらしくないですよ」
「頼む、アレン。今日だけでいいんさ、今日だけ……アレンの側にいさせて欲しいんだよ」
己の存在意義と仲間との間で揺れる感情。全てを捨てる覚悟などないにも関わらずアレンへの愛に溺れ、師であるブックマンを失望させるラビに残されたのはあの日失ってしまったはずの繋がり。
互いを信じ、時には厳しく接する関係性は師弟だけでない。愛の名のもとに繋がる恋人へと向けられることすらも知らずにいたラビは、アレンと出会いはじめて師弟以外の関わりを知り得たのだ。
また彼が厳しいだけでないことも知っていた。恋人になる遥か前から優しさにあふれたアレンは、仲間から恋人へと関係性が変化すればするほどただ厳しいだけでなく、時に甘え、時に優しくラビを包んでくれるのだ。世話を焼こうにも何事にも一途な年下だと考えていたのもつかの間、気が付けばラビ自身よりも大きく、かつより優しさのある人間へと成長をしていった。
怪訝そうに移動するラビの足取りは重たい。
頬に貼り付けられたガーゼをゆっくりと手のひらで撫でるが痛みで顔を歪めることはない。ただ溜息を漏らすばかりだった。
ブックマンとともに任務を終え教団本部に戻ってきたものの、エクソシストとしての立場に主軸を置き過ぎたせいか怒らせてしまった。貴様はまだまだ未熟だ、甘いといつになく厳しく叱られてしまったものの、自分自身きちんと反省の色を示したつもりだ。
黒の教団に身を置いて早数年、この場で出会った仲間とも呼べる存在に心を寄せ過ぎてしまったと頭の中では充分に理解をしているのだ。裏歴史を記録するのが生業のブックマン一族は仲間などいらない。仲間などと呼ばれる存在はただの紙上のインクに過ぎないと──。
しかしいざ戦闘となると頭よりも先に体が動き、仲間を守るべく奔走してしまうのだ。己の心が弱く、まだブックマンになりきれていないのだとラビ自身は気付いている。師匠であるブックマンに指摘されずとも分かりきっていたことだった。
遅かれ早かれ黒の教団から退かなくてはいけない時期が来る。いずれノア側につき裏歴史を記録しなくてはいけない未来が訪れるだろう。
その時のため、エクソシストたちと交流を深め仲間と呼べる存在になってはいけない。
ブックマンとは何者にも属さず裏の歴史を記録する者。それ以上でもそれ以下でもないとこの身に刻み付けていたはずだった。
それでもなおブックマンと衝突を繰り返してしまうのは、未だに染まりきれていないからだろう。人生を懸けて全うしなくてはならない役割に。
だがこの黒の教団に身を置きブックマンではなくエクソシスト、ひとりの人間へと変わってしまったのもまた拭いされない事実。
任務地へと赴く度に深まってしまう絆。開き許してしまう心。漏れる笑顔の数は過去の比ではない。
心に変化が生じてしまったからだろう。
インクではなく仲間どころでもない。それ以上の存在になってしまった。愛を囁く仲にまで至ってしまった。恋心が報われたところでいつか後悔をすることになると理解しながらも、彼に心を奪われてしまったのは己の弱さのせいか。
「アレン、今日はお前の部屋で寝てもいいさ?」
就寝間際の来訪にも関わらず扉を開けてくれるアレンの元へと帰ってしまうのだ。
こういうところもまたブックマンを怒らせる要因のひとつなのだろう。怒りを制御できない子供のようにブックマンの元を離れ、一時的な仲間であるはずの人間が休んでいる場所へと逃げていく。
その都度アレンとの距離が近付いた現実すらもブックマンが把握しているとは限らないが、歴史の傍観者としては許されざる行為だ。紙上のただのインクと身を交じらわせるなどあってはいけないことだと、アタマでは理解しているはずだった。
この身にアレンの温もりを知るまでは。
「ラビ、またブックマンとケンカでもしたんですか?」
「……うっせー」
「子どもですね」
「オレが子どもなら、アレンだって充分に子どもさ」
深い事情を聞くこともなく部屋に招き入れてくれたアレンを強く抱きしめた。
彼を抱き留めるとほんの僅かではあるが解消されていく苛立ちの正体を話したことはない。ブックマンという立場だからこそ抱く負担や不安、怒りを理解されることも同情されることも望んでなどはいなかった。
恋人に対し、隠し事をしていることにはなってしまうが全てを聞き出そうとしないアレンだからこそなのだろう。何も言わずに抱きしめ、抱きしめられる穏やかな時間が尊いものになっていた。
何も話さずにいた結果でもある、アレンからかけられた「子どもですね」の言葉を否定するつもりはない。
「とっとと部屋に戻ったらどうですか。ラビがいうように僕が子どもだとするならば、僕は部屋を貸しませんからね。子どもは早く寝なくてはいけませんから。ラビに構っている時間はありません」
「そんなこと言わないでほしいさ」
本心でないとはいえ、アレンの突き放すかのような物言いに肩を落としてしまったのは、彼の前であれば今はない幼き日の自身をさらけ出せそうな気がしたからだった。
だが幼い頃から戦場に身を置いてきたラビの記憶には子どもらしく振舞ってきた過去はひとつもない。同世代の子どもと関わっていた時代でさえも、彼らの中に溶け込めるよう努力をしてはいたものの、非情になりきるため子ども心を喪失するべく努めてきた。彼らのように見せるための過去の言動はあくまでも演技だ。
しかし今になっては決して演技ではなく、周囲に馴染むためでもない。子どものように時に我儘をいい、不貞腐れた態度を取るまでになってしまったのは自分が大人になったからなのか。成長をしたことで意識せずとも他人によく思われよう、距離を詰めようと行動をしているのか。または幼い頃と比較してもブックマンの後継者としての意識が薄くなってしまったからなのか。ラビには分からなくなってしまっていた。
「お願いさ、アレン」
ラビはアレンの耳元で優しく囁き縋る。
我儘ともとれるほど素直に甘え、自分の感情を押し通すような真似をアレンならば許してくれるだろう。
それさえもが自分勝手な欲だがひとりの人として愛してしまった彼には知って欲しいとさえ願ってしまった。49番目の名前を背負いブックマンとして生きてきた自分自身の中に確かに存在している、‘ラビ’という人間を愛し、受け入れてくれると思いたかった。
立場から生じる細かな感情を知られたくはないラビだったが、この身に芽生えた愛情だけは理解をして欲しい。
今はそれだけ。
「──アレン」
ブックマンにあるまじき感情に突き動かされた後の結末を記憶する必要はない。ただ脳裏に刻みつけておきたかった。49番目の名前を捨てブックマンとして生きていかなくてはいけない時期がいつ訪れてしまってもいいように、この身が愛した男がいたという事実だけは胸に残していたいとさえ願う。
そう考えてしまうのがブックマン──パンダじじいのいう甘えのひとつなのだろう。
「なぁ、アレン…………オレは」
「ら、ラビ? どうかしたんですか、いつものラビらしくないですよ」
「頼む、アレン。今日だけでいいんさ、今日だけ……アレンの側にいさせて欲しいんだよ」
己の存在意義と仲間との間で揺れる感情。全てを捨てる覚悟などないにも関わらずアレンへの愛に溺れ、師であるブックマンを失望させるラビに残されたのはあの日失ってしまったはずの繋がり。
互いを信じ、時には厳しく接する関係性は師弟だけでない。愛の名のもとに繋がる恋人へと向けられることすらも知らずにいたラビは、アレンと出会いはじめて師弟以外の関わりを知り得たのだ。
また彼が厳しいだけでないことも知っていた。恋人になる遥か前から優しさにあふれたアレンは、仲間から恋人へと関係性が変化すればするほどただ厳しいだけでなく、時に甘え、時に優しくラビを包んでくれるのだ。世話を焼こうにも何事にも一途な年下だと考えていたのもつかの間、気が付けばラビ自身よりも大きく、かつより優しさのある人間へと成長をしていった。