花の名前
傷を庇いながら、アキラは路地を駆ける。
傷ついたのが右腕で良かった。
利き手は動く。まだ、戦える。
左手でナイフを握り締め、背後の気配を気にしながら角を曲った。
目の前を真っ黒なモノが遮った。
一瞬目を瞠り、それと同時に殺気を感じて跳び退り、ナイフを振りかざした。
キィンと硬質な音が響いた。
「ほう・・・・」
少しの驚きを含んだ静かな声が降ってくる。
頭一つ分は上から聞こえてくる。
見上げれば、真っ黒な色彩に鮮やかな真紅。
この色合いを持つ人間はこのトシマに一人しかいない。
シキだ。
「だが、次はどうかな」
「っ・・・・・・・・」
容赦なく、刀が振り抜かれる。
急所を狙って向かってくる刃を避けながら、間合いを外すべく横に跳ぶ。
しかし、長物を使っているとは思えないスピードでそれは追いすがってきた。
「ック・・・・ぁ」
なんとか、ナイフで受け止めるものの、その細く見える身体のどこにそこまでの力があるのか。
両手で支えても押し負けそうになる。
「どうした?そんなものか?」
「うる、さいっ!」
赤い目が真直ぐ此方を見ている。
逸らすこともできず、その目を睨み返す。
それのどこが面白かったのか、その男はニヤリと笑みを浮かべると刀を引いた。
シキといえば問答無用で斬り殺すというイメージしかなかったから、刀を引かれたことに驚いた。
笑みを浮かべたままのシキに見下ろされる。
何かを言うでもなく、何処かへ去るでもなく。
ただ、此方を見るだけ。何がしたいのか。
今すぐ、ということはなくなったが命の危険が去ったわけではない。
警戒心を隠さずにシキの赤い目を睨みつけた。
「お前、名前は」
問われた言葉に内心首を傾げる。
この男は一体何がしたいのか。
「そんなことを聞いてどうする」
「お前に拒否権は無い。さっさと答えろ」
「・・・・・・・・・・・・」
断ったらそのまま腕を一閃するのだろう。
さっきはかわせたが次はどうなるか分からない。
傷を負った右腕はまだ血が止まってないようでジクジクと痛みが這い上がってくる。
「・・・・・・・・・・・アキラだ」
膠着状態が続くよりかは、と名前を告げる。
シキは何か呟くと、満足気に頷いた。
「右腕に跡は残すな」
「は?」
一方的に訳の分からないことを言ってから身を翻すシキを呆然と見送った。
「跡って・・・・・・・何の話だ?」
いつまで其処に居たのか、正確な時間も分からないがそろそろ右腕の傷も気になるからと近場のビルで一休みすることにした。
リンに貰った医療道具はバックと共に落としてしまった。
水や食料も入っていたが既に誰かに拾われただろうと諦める。
傷口を確かめるために上着を脱いで腕をさらした。
「・・・・・・・酷くはないな」
ナイフで切られた傷口は綺麗で特に治療が必要ということもなさそうだ。
ただ、そのまま晒しておくと傷口が汚れそうなので包帯かガーゼが必要だった。
「荷物は落としたし。・・・・・・仕方ないな」
そう言うとTシャツを脱ぐ。
そうして現れたアキラの胸部にはさらしが巻かれていた。
さらしを慣れた手付きで外していく。
全て外し終わったアキラの胸には二つの膨らみがあった。
「暑いし、動きにくいが偶には役に立つな」
外したさらしを適当な大きさに裂き、また元のように胸に巻いていく。
一通り巻き終えるとTシャツを着てから裂いたさらしを傷口の上に巻いていった。
立地帯のホテルに行くとリンか源泉のオッサンが心配したように声を掛けてくれる。
そんなに酷い表情をしていただろうか。
「色々聞いて回ってるが、ヴィスキオのリストには載ってないようだ」
それはまだ死んではないということ。
「大丈夫だよ。アキラに犬みたいに懐いてたじゃん。もうすぐ帰って来るって」
「そうそう。気にしすぎると身体に悪いぞ」
頭一つ分は低いリンが安心させるように笑う。
「俺も探すんだし、絶対見つかるって」
「そうだぞ?一人より二人ってな」
オッサンも唇の端を吊り上げて笑った。
雨に打たれながら思い出す二人の言葉に、謝罪の言葉しか思いつかない。
ゴメン、もうケイスケは・・・・・・・・・
左の手の甲から流れる赤い液体に視線をやった。
雨に洗い流されながらもモノトーンの視界に鮮やかに映える、赤。
この街に来てから数え切れないくらい目にしたいろ。
それがこれほどまでに憎く見えたことは無いかもしれない。
何もする気が起きず、起き上がるつもりにもなれない。
雨で体温を奪われ、このトシマという街で無防備に路上に転がっている。
それがどんなに危ないものかも知りながら。
もう、どうでもいい・・・・・・・
そんなことを頭の片隅で思ったとき、硬質な足音が路地に響いた。
段々近づいてくる音にも反応する気は起きない。
それは俺を見つけたのか一度止まると再び響いた。
「無様だな」
その声には聞き覚えがあった。
いつか、路地で聞いた声。
「なんだ、反論することも出来ないか」
流れる血よりも鮮烈な紅。
シキだ。
「・・・・・・・・・殺すのか?」
「死にたいのか?」
吐いて出た言葉にシキの方が驚いた顔をした、ように見えた。
それから、少しだけ柳眉を潜めた。
「腑抜けた面を晒すな」
「なんだよそれ」
「自分がどんな顔をしてるかも分からんとは」
無理矢理腕を引かれ、起こされる。
見上げなければ合わない視線。
その紅い眼にはどんな表情が映っているというのか。
「ふん、向こうでフラフラ歩くライン中毒者を見たがな」
その言葉に身体が反応する。
――――ライン。
「アレは死ぬな」
何の感情も篭らない断定の言葉。
ケイスケだと言われた訳でもないの身が竦む。
それでも、頭の隅で何かが囁くのだ。
猛だって、イグラを仕掛けてきた男だってそうだったじゃないか、と。
きっとケイスケも・・・・・・・・・オ マ エ ノ 血 ノ セ イ デ 死 ヌ。
「あ・・・・・・・ッ・・・…」
それを認めたくなくて、弾き飛ばされたナイフへと手を伸ばした。
何の興味もなさそうに、俺の行動を見ていたシキが瞬間的に苛立ったように眉間に皺を寄せた。
ナイフに届く前に伸ばした左手はシキの手に囚われた。
指先から伝わる熱は温かく、シキにも体温があることに何故か驚きを覚えた。
「また、傷を負ったのか」
「アンタには、関係ない」
傷口をマジマジと眺められることに感じる居心地の悪さに顔を逸らす。
だから初めは気付かなかった。
柔らかく、熱いとさえ感じるそれの正体に。
「っ・・・・・・・・アンタ、何してっ・・・・」
白皙の顔が伏せられ、まるで御伽噺に出てくる騎士の誓いのように左手の甲へと唇が落とされていた。
血を舐め取るべくゆっくりと舌が這わされる。
目を逸らせなかった。
身動きを取ることすらできず、ただシキの行動を見つめるだけ。
「・・・・・・・・チッ」
暫らくして、小さな舌打ちが聞こえた。
忌々しそうに血が止まったその傷を眺めている。
「何・・・・・・が、したいんだよアンタ」
「・・・・・・・・」
シキは答えようとしない。