【弱ペダ】ヒタルヨル
「あの、ちょっと考えたら楽しくなっちゃって」
巻島が無言で先を促す。
「あの、一緒に走りに行ったら楽しいだろうなって。山ばっかり登って、寝袋とテントとかで寝泊まりして。あ、もちろん、旅館とかちゃんとした宿でも良いんですけど。そうやってあちこちに一緒に行けたらいいなって思ったんです」
その言葉を言い終わった途端に、峰ヶ山の頂上に着く。道しか見えなかった視界がぱぁっと開ける。眼下に自分達の暮らす街並みが見え、その向うに陽が落ちて行く。夕焼けの赤に染まった山並みと明かりの灯り始めた小さな街並みの広がる景色を見ると、縮こまって良いことも悪いことも溜め込んでいた自分の中身が一瞬、すかん、と空っぽになるような気がした。無くなってしまうのではない。大小はあれど、時に考えすぎて、勘ぐりすぎて、悩みすぎて、頭の中でぐるぐるに拗れ、縺れて捻れた思考がリセットされる気がするのだ。
そして、その後最初に浮かんだ気持ちが、自分の本当の気持ちだ。
隣に立つ存在と、いつまでも一緒にいたい。
「いいな、ソレ」
巻島が笑って坂道の提案に答えた。
「行きたいです」
坂道は嬉しくなって、興奮気味に答えた。
練習じゃない、なんて言い訳がちょっと苦しい距離を走って、巻島の家に辿り着く。しんと静まり返った玄関で、バタン、と驚くほどに大きな音で扉が閉まった。その音の大きさに思わず体がびくん、と震えた。明かりがなくなって、急に目が見えなくなったように暗闇に閉ざされる。
その時になって、坂道はやっと理解する。緊張しているのだ。この上なく。
いよいよ巻島の家に向かう、いつもの見慣れた帰り道とは違う道を走るにつれて。知らない街角を曲がり、車通りの異なる信号を渡っていくに従い、鼓動がバクバクと耳まで響くような音になる。緊張でペダルが重く感じた。
なんだかいつもと違うぞ、とそう思ってはいたが、外の明かりが遮られた薄暗い玄関で、坂道は自分が物凄く緊張していることを唐突に理解したのだ。
それはつまり――。
ガチャン、とカギの閉まる音がしたと思うと、ふわりと後ろから熱に包まれる。坂道、と自分の名前を呼ぶ巻島の声が切なく掠れていた。
「ま……、きしまさ……」
坂道も呼ぶが、緊張の余り口が回らない。そう、坂道はこの後の展開を理解していたのだ。言葉にはならなかったが、何となく昼にしたキス以上のことをするんだろうと判っていた。
余りに胸の高鳴りが激しくて心臓が口から飛び出してしまいそうだ。巻島の唇が優しく重なる。
まだ玄関を入ったばかりだというのに、坂道は巻島の腕に抱きしめられて、胸に縋り付いていた。息を吐く間も与えられずにずっと口付けをされていた坂道は、やっと解放されて肩で息をする。
「部屋……、行くッショ」
巻島の囁きに、坂道は息を乱したまま、うん、うん、と無言で頷いた。縺れそうな足元で縋りついた巻島に支えられて、一度訪ねたことのある部屋へと入る。陽の沈んで行く中、もう薄暗い部屋だ。ドアを閉める音がしたかと思うと、次の瞬間にはベッドに横たえられていた。
「怖いか?」
巻島の問いに、口を開く。何かを喋ろうとしたが、言葉が上手く出てこない。だから、ぶんぶん、と首を振った。そして、出ない喉を振り絞って、まきしまさん、と呼び巻島の身体を抱きしめた。
巻島と坂道は抱き合ったままでいた。
「あんま……、余裕なかったっショ」
巻島がぼそりと気に病むように呟く。あれだけ自分を優しく気遣ってくれていながら、それでも余裕をなくすほど自分との行為に夢中になってくれたのか、とそう思うとじわじわと嬉しい気持ちが身体中に広がる。坂道は思わずぎゅうと巻島に抱きついた。
「大好きです」
何からどう伝えていいのか判らず、ただ一言そう言った。巻島がぐしゃぐしゃと坂道の頭を撫でてくれる。それすらも堪らない気持ちになった。巻島とこうなれてどれだけ嬉しいか。巻島との行為がどれだけ気持ちよかったか。途中からワケがわからなくなってしまったせいで、全部は覚えていないけれど、自分を乱れさせた巻島がどれだけ、恐ろしくも魅力的で官能的でドキドキしたか。伝える言葉が出てこない。いや、それでも全てを伝えたい。
あのですね、と口を開こうとした途端、ぐきゅう、と図らずも腹の虫が鳴いた。
「わ……、あ……、すいません! そういや、もう真っ暗ですもんね……、あ、いえ、その。ムードもへったくれもないって感じですよね……」
鳴り止まない腹の虫に坂道が飛び起きて腹を押さえたり、あわあわと弁解の言葉を述べるその隙間を縫うように、ぐう、と巻島の腹も鳴った。
「ああ……、俺も腹減ったっショ」
巻島がくすっと共犯者めいた笑顔を浮かべて上半身を起こす。
「なんか食うか」
そして坂道の頭を撫でながら向けてくれるその笑顔すら、坂道を捕らえて離さない。
「はい」
ドキドキと高鳴る胸を押さえて返事をした。
料理もしたことがない二人がしばし頭を悩ませて作ったのは、野菜を適当に放り込んでバジル味のソースにサラダチキンを乗せたパスタだった。それを再び巻島の部屋に持ち込んで、ケーブルテレビで再放送していたロードレースを見ながら食べた。
同じ自転車競技部の先輩で、クライマー同士で、同性同士だけれど付き合っている相手で。巻島と坂道の共通点なんてそれしかない。趣味もまるで違う。それでも身体をつなげたいと思うほどに大好きで、大事で。終わったら終わったで、自転車のレースを一緒に見て楽しむことも出来る。
巻島と一緒に過ごす時間の全てが大切だと改めて思う。
こういうのを交歓、て言うんだっけ? 授業で出た言葉をふと思い出す。親しく打ち解けあって楽しむことだ。友達すらいなかった自分にこんな相手が出来るなんて。
一方で愛がつくと性的な行為をさす。その言葉の通り睦みあって互いの歓びを交わせたかは、坂道にはまだ判らない。きっとこの先、今日のことをたどたどしく、稚拙な二人だったと微笑ましく思い出すこともあるだろう。そう思うほどに日々を重ねて行ければいい。
いつか二人でいられなくなる日がくるだろうか。
そんなことは考えるのもいやだけれど、いつかはこの現実に向き合わねばならない日が来る。その時二人がどう結論を出すのか。そんな先のことなど判らない。
巻島がふとそんな物思いに耽る坂道を見て、笑う。その笑顔にドギマギしていると、巻島が坂道の口の端を親指で掬い取る。見れば、バジルソースだ。坂道がティッシュ、と言う間もなく、巻島がぺろりとそれを自分で舐め取ってしまう。そんな行為にすら、官能の疼きを覚えた自分にビックリして、言葉も出なかった。それをどう思ったのか、巻島が軽くキスを寄越す。
ああ、やっぱりこの人のことだ好きだ。誰が何をどう言おうと。たとえ許されなくたって。大好きだ。
だからこそ、互いだけしかいないこの時間に目一杯甘く浸っていたい。
そして、今日のことは大事な大事な思い出として坂道の中に残るのだ。
――end
作品名:【弱ペダ】ヒタルヨル 作家名:せんり