太陽と雨
近江の大地を覆う鉛色の空に慣れてしまった。しかし暖かな陽射しを拝めてはいないからか、太陽という存在が懐かしく感じてしまう。
──これもまた大蛇様復活の予兆か。
そこまで考えてゆっくりと唇を結び直した。
絶対的に知られてはならない秘密を抱えて片時も曇天三兄弟の元を離れない。いつか訪れるはずの出来事を夢見て、今はただ幼い頃には成しえなかった平穏な暮らしに身を置いている。
名を与えられ、曇天三兄弟が暮らす曇神社に居候をしている元風魔の忍。それが今の肩書きであり表の顔。
だったはずで。
無造作に投げ捨てられた酒瓶を拾い集める金城白子という男はいずれその名を捨て、念願叶った日には再び風魔の首領として生きていくと考えていた。考えていたはずだった。
この地での、この兄弟のもとで過ごす時間がかけがえのないものになってしまうとは思いもせずに。
「天火、邪魔なんだけど」
畳の上で大の字を作り寝転がる曇家当主の足元を小さく蹴った。
足を当ててはいないものの、不機嫌な様子のその男は頭の下で腕を組み苛立ちを見せていた。吐き捨てるように言い放たれた言葉を耳にすると溜息しかつけない。
「……うるせー。2日酔いで頭が痛いんだよ、放っとけー」
「自業自得だよ、天火。俺は止めたよね? 飲みすぎだって」
「……いーや! 白子がちゃんと止めなかったから、俺は飲み続けちまったんだ!」
「人のせいにするんじゃない」
夕飯の買い出しに向かった空丸がこの状況を見たら確実に怒りをぶつけるだろう。酒瓶を全て空っぽにしてしまいぐうたら寝ているだけの長男を前に、あのしっかり者の次男が黙っているはずがない。
寺子屋で勉学に励んでいる宙太郎は迷いなく天火を真似て横に寝転がることだろう。そして引っ付き過ぎた末に拒絶され落ち込む。
曇天三兄弟とともにしている時間はとても長い。彼らの行動など容易く予測できてしまう。しかし何重にも寝返りを打ち2日酔いと闘う兄に関していえば予想などできようもなかった。頭の中で考えていた想像の斜め上を行く言動の数々に悩まされる。
「……なぁ白子、お前も横にならないか?」
「俺は掃除がしたいだけだが?」
「そんなもん、後でいくらでもできるだろう? 俺は今、お前と寝たいんだよ」
斜め上どころか何周しても思い付くはずのない返答に白子は頭を抱えた。
「それはどういう意味のつもり?」
「深い意味はねーよ。そのままだ」
「そのままって言われてもなぁ」
真顔で語る天火の言葉にまたもや度肝を抜かれてしまう。
考えすぎ──なのだろうか。ただ横になるだけで済むとは思えない。
金城白子として生きてきた結果、見張るべき存在と結んでしまった関係性は解消されることがないままだった。恋愛感情は抱いていないにも関わらず、ただ天火に導かれるままに至った関係を考えると「寝たい」の一言は誘われているのだろうか。
弟たちの目を盗み真っ昼間から盛った猫のように発情した男にこの身を委ねられ、満たさなくてはいけないのか。
「どう捉えてくれても構わねーよ。お前の好きなようにしてくれ」
言われたがままに天火の腰部分にまたがり首の横に手をつき、ゆっくりと覆い被さった。彼の目前にまで顔を寄せ、今にも唇同士が重なり合う距離にまで近付く。
「天火、お前の言う寝るとは……こう捉えていいのか?」
口を動かす度に天火の唇に触れてしまうほどの近距離であっても、白子の心は今更何の変化もない。主からの命令であれば心を揺れ動かす必要はないのだ。
「あぁ、これでいい。俺はお前のことを愛しているからな、白子」
微笑み白子の唇を奪った天火は口づけを深いものへとしていった。一切動きのない白子の舌はあっさりと捕らえられてしまったものの、ざらついた舌の感触はとうに慣れてしまい抵抗ひとつしてみせずに天火からの接吻を受け入れ続けた。
何度も愛を謳う彼に対し白子は応えてあげるかのような行為をしたことはない。全てを天火に委ね彼が満足したらそこで終わる。自分が果てたかどうかは問題ではなかった。もちろん性欲と呼ばれるものがないわけではなかったが、体を繋げてもなおそこに愛はない。
「……お前の返事は…いらねぇよ」
「うん……分かってる」
長い口付けを終え、天火の口元からこぼれおちる白銀の雫に指を伸ばした。僅かに滑りのある感触だがそんなことはどうでもよかった。そもそもこの口付け自体が白子の中では何も残らないほど意味のあるものでもない。
「白子は……ただ俺たちの傍にいてくれればそれでいいんだ」
「知ってる。傍に置いてくれてありがとう、天火」
風魔の忍として生きてきた白子にとって、主従関係ではないながらも当主であるこの男を主として見据えてきた。命令は絶対、命よりも重んじるべき事柄というだけではない、ひとつひとつの小さな要望さえも命令として受け取り続けることで愛のない行為でさえもやってのけてきた。
天火が語る愛を理解できずにいたからこそ、この体を繋ぎ合わせようとする瞬間だけは特別に許されている。普段彼が口にする親友などではなく、命令に付き従う忍として一夜をともにすることを。
白濁色の液体を逞しく鍛え抜かれた天火の身に撒き散らそうとも厭わない。それが命令であれば遂行するのみ。
「好きになってくれなくても構わない。けどな情事の時だけは俺を主だと思い、全てを受け入れろ」
思い浮かぶのは初夜を迎える前の瞬間に、納得がいっていないかのように顔をしかめる天火の顔だけだった。
親友でいることを望みながらも愛を囁いたこの男に対しての感情など今となっては無と化した。普段であれば抱いているはずの友情や家族への愛情などは一切浮かばせず、深い深い湖の底に沈みこませる。
いくら天火が絶頂を迎えようと、そこにいるのは親友でも白子を愛していると謳う男でもない。行為に溺れることで男に愛されていると感じたがっている主の姿のみ。
「でも……天火は本当にこれでいいの?」
愛を知らぬ自分が言えたことではないかもしれない。だが口から出任せの愛を受け取ろうとはせず、体を繋ぎ合わせるだけで満足をしてしまう天火の心を理解することはできなかった。
彼が望むのならば何度でも愛を嘯くことさえできるのに。
己からは偽りであろうと愛を謳わず、静かに過ぎて行くだけの時間に身を任せているだけ。それだけの白子に指摘をされるのは苛立ってもおかしくはない。
「なにがだ、白子」
口元を拭った天火が我に返り鋭い眼差しで睨み付けてきた。
男の目は明らかにただの親友のものだった。愛を謳うはずのない男の強く鋭利な刃の如き瞳は自分の思考に一切誤りがないことを主張している。
その威圧的ともとれる態度に白子は一度静かに空気を飲みこんだ。今まで何度だろうと冷徹な殺気を浴びせられ、その都度退けてきた自分が一瞬反論を躊躇ってしまうほどだった。
「俺はね、お前を愛することはできやしない……それでもお前は俺を忍として雇うのが嫌な癖して、こんなことを続けていていいのか?」
近江を照らしているはずの陽がその身に抱えている深い闇の存在。