文シリ短文詰め
太芥への3つの恋のお題:むさぼるようなキスを/あれはなかったことにして欲しい/君が望むなら何度でも
【すれ違い】
「なかったことに…、して頂けませんか」
喫茶店の奥まった席で、うなだれながら小さな声で青年は言った。普段から猫背気味の背中をいっそうを丸めて、顔色は悪く、傍から見ても可哀そうなくらい消沈している。
「僕はどうかしていたのです」
先日二人で会った時の帰り際の事だと、口に出さずともお互いが分かっていた。
「酔っていたとはいえ、とんでもないことをしてしまいました。僕は先ず貴方に謝らなければいけないのに、こんなお願いをするのはずいぶん身勝手な事だと分かっています。いいえっ、もちろん先生が僕をお責めになるのは、甘んじて受けるつもりです。でも、その、あれは」
忘れて下さい。頭を下げてテーブルに両手をついた彼を前に、僕は黙って煙草をくゆらせていた。
そしてあの日の出来事を思い出していた。
別れる直前、夜道で体を引き寄せた青年の腕の、意外な力の強さ。噛み付くように貪る唇の感触を。酔った熱い息が耳にかかって、龍之介さんと、初めて僕の名前を呼んだ。
「太宰くん」
彼に何と言ってやれば良いのか、僕は考えの纏まらぬまま聞き返した。
「君は、そうしたいのだね……?」
はじかれたように彼は顔を上げて、何か形容しがたい表情で僕をじっと見つめた。
そんな顔をしないで欲しいと思った。そんな顔をされるとどうしたって僕は、これが青年の本意ではないかのように勘違いをしてしまいそうだった。
「ぼ、僕は……」
彼は再び額を擦り付けんばかりに頭を下げた。
「僕は先生に嫌われては生きていかれません!二度とあんな無礼は働きませんから、ですから、どうかもう僕なんかには金輪際会わないなどとだけは、仰らないで下さい…」
こんなに小説家としての僕を尊敬してくれているのだと思うと、不謹慎にも嬉しかった。同時に、苦しくもなった。
彼が望むように今までで通りの付き合いを続けていくとして、果たして僕は起きた事を忘れて何も変わらない態度でなどいられるのだろうかと。
しかし酒の上の失敗だ、なかったことにして欲しいと頼んでいる相手に伝えるなんてどうして出来よう。
君が望むのなら何度でもかまわないのに、なんて。