マイ・エンプティネス
自分を見下ろす双眸。
いつもの情愛も尊敬も、困惑すらそこから見いだすことはできず、ただひたすら固めた冬の闇のような瞳は揺れもしなかった。軽蔑と侮蔑。腹の底に冷えたものを流し込まれるような感覚。恐怖。
怯えを振り払うように、私は彼の頬に触れようと手を伸ばす。あろうことかこの自分が媚を売り、寵を得ようとするように。若い彼の肌は白く、皺一つなく、温かく血が通っている。触れればすぐにでも安心できそうだ。いつものように。しかし、手はなぜか届かない。
伸びる私の腕を見ながら、彼は一言も発することなく、心底嫌そうに少し体を捩った。そうして、再びしばらくじっと私を無表情に見つめると、ぱっと身を翻し、足早に歩き去っていく。小柄な後ろ姿は見る間に小さく霞んでいった。
待て、待ってくれ。
追い縋り、叫ぶ自分の声。夢だとすぐわかる。現実の自分だったらこれほど不様なことをするはずがないし、彼もそんな私を許すはずがない。
私は必死で彼を追った。しかし彼は特別に走っているわけでもないにも関わらず、どんどんと先に行ってしまう。180センチを優に超す私が、 170センチにも満たないであろう彼に追いつかないはずがないのにも関わらず。私は段々息が上がる。彼はどんどん小さくなって行く。喉を懸命に開き、叫ぶ。
「ドミニク!」
そしてそこで目が覚めた。
しばらく微動だにせず、私は寝床でじっと身を潜めるように固まっていた。雨が降っている。絶え間ない水の音。私は起き上がり、寝室の窓のカーテンを開けた。キャピトルヒルの夜は深かった。
私は自分の気弱さに毎度のことながら呆れるような気持ちで深呼吸をした。よく見る夢だった。ドミニクを失う夢だ。彼を失うことを怖れているのか?この私、デューイ・ノヴァクが?はっ、その通りだ。自嘲の笑みを浮かべる。
ドミニク・ソレルは、長い幽閉生活で病んだ私の精神を、世界につなぎ止める唯一の錨だった。人の尊厳など屁とも思っていない看守どもの中、また他人のことなど興味も関心もなく寝穢く自己保身に走る同じ刑務者どもの中、自分の信念を守るために、私は自分の殻の中に深く潜った。そして、限られたドミニクの訪問によって、私は自分を取り戻す時間を得ていた。海深くに暮らすクジラがたまに酸素を求めるように。私はそれを失いたくなかった。その思いが見せていた夢だと長く思っていたのだが、こうして自由の身になってもよく見るということはどういうことなのだろうか。わからなかった。
自分を見下ろす双眸。
いつもの情愛も尊敬も、困惑すら見いだすことはできず、ただひたすら固めた冬の闇のような瞳は揺れもしなかった。軽蔑と侮蔑。腹の底に冷えたものを流し込まれるような感覚。恐怖。
またか。またこの夢か。分かっているにもかかわらず、怖れは消えない。
怯えを振り払うように、私は彼の頬に触れようと手を伸ばす。あろうことかこの自分が媚を売り、寵を得ようとするように。若い彼の肌は白く、皺一つなく、温かく血が通っている。しかし、届かない。今日は足が重かった。ふと目を落とすと、両腿が重い鎖で椅子に縛り付けられている。
伸びる私の腕を見ながら、彼は一言も発することなく、心底嫌そうに少し体を捩った。そうして、再びしばらくじっと私を無表情に見つめると、ぱっと身を翻し、足早に歩き去っていく。小柄な後ろ姿は見る間に小さく霞んでいった。
待て、待ってくれ。
追い縋り、叫ぶ自分の声。叫ぶたびに私の腿の上で鎖が太くなり重くなり、緩慢に揺れる。耳障りだ。
鎖はどんどん太くなり、はじめ私の腿を縛っていただけだったそれは、あっという間に腹を締め付けるほどになり、それでもその成長をやめることなく、とうとう首まで達した。息ができない、という根源的な恐怖に晒されて、体中が強ばる。
そしてそこで目が覚めた。
「大佐。随分とうなされていらっしゃいましたが」
金髪碧眼の少年が近づき、「失礼」と一礼すると柔らかいガーゼで私の冷たく濡れた額を拭った。私は視線を膝に移し、夢を理解する。組んでいた足が痺れていた。その感覚が鎖という形で夢に現れたのだろう。苦笑した。
「あまり根をお詰めにならないでくださいね」
少年は心配そうに少し目を落とした。そんなことを言われたところで私が休むわけがないことを、世界で一番理解している人間が、だ。そしてそもそもこの少年はそんなことを私には期待していない。
「心配しないでいい。よく見る夢なんだ」
私は予定調和的に口角を少し上げてみせる。彼はホッとしたように微笑んだ。
「ジエンドは?」
「もうそろそろイズモ隊にいる参謀殿から通信が入る頃かもしれません」
「そうか」
私は額の汗を拭き、机に肘をついた。
少年は下がった。
作品名:マイ・エンプティネス 作家名:芝田