その先へ・・・2
そろそろ仕事にいくと言うイワンに、家で待つ妹に塊肉を持って行って何か作ってやれ、とズボフスキーが言い出した。
ガリーナが席を立とうとしたのをユリウスが慌てて押し留める。
「ぼくが用意するよ」
「あなたが?大丈夫?」
「大きく切り分けるだけだからぼくでも大丈夫!ガリーナは休んでて」
にっこりと笑って、ユリウスがキッチンへ立って行った。
すこし前までの不安を残した儚い笑みとは違い、どこかすっきりとした明るい笑顔だったので、ガリーナは安心したのだが、アレクセイは心配そうに勝ち気な背中を追った。
「大丈夫かしら?ユリウス…」
「あ?あ、ああ!そうだなぁ、包丁の練習始めたばかりなんだろう?しかも肉を切り出す包丁は結構大きいしな」
「そうなの。それにあの包丁重いのよ。私も未だに怖い時があるわ」
「……!ったく!ああっ!もう!わかったよ!行きゃぁいいんだろうが!」
ズボフスキー夫妻にまんまとはめられたアレクセイが、足早にユリウスを追ってキッチンへ向かった。
「素直じゃないな、まったく。ユリウスの事になると、まるで子供だな」
顔を見合せ、二人で声を殺して笑い合ったズボフスキー夫妻に、イワンが小声で話しかけた。
「あ、あの……同志アレクセイとユリウスって……?」
尊敬する同志アレクセイと、ユリウスの思いもかけない応酬に圧倒されていたイワンが、おそるおそる尋ねてきた。
「あの二人はね、本来は相思相愛の恋人同士よ。でも色々と不幸な出来事が重なってね、今は恋人未満に逆戻り。でもね、もうじき……よ」
「だがあれじゃぁ、恋人未満どころか学生時代の先輩後輩じゃないか」
「あら、だってあの二人はそうやって愛を育ててきたのでしょう。確かにちょっと変わっているけれど、あれが二人にとっての自然な形なんじゃないかしら。その証拠に、あのアレクセイの明るい顔、見たでしょ?」
イワンとフョードルは顔を見合わせコクコクと頷いた。
アレクセイはミハイルの事でかなりまいっていた。
それに加えて様々な事を抱え込んでおり、ズボフスキー夫妻はアレクセイに痛々しささえ感じていた。
ところがユリウスを相手にしていると、いくらか抱えている影が薄れていくような気がするのだ。
今日ここを訪れた時の彼の顔つきと、今キッチンでユリウスを見守っている彼の顔つきを比べれば、その違いは歴然としている。
これまで、ある一定の距離を保っていたユリウスとも、微妙な進展をしたような気がしていた。
「しかし相手はあのアレクセイだぞ。一筋縄ではいかんぞ、きっと」
「そうかしら?アレクセイもユリウスも、この前よりもとってもいい雰囲気だし、いい顔してるわ。会う回数を重ねる度に、二人の距離はもっと近づくわ」
「だがあいつは、ユリウスを故郷に連れ帰ると言っているぞ。あいつの頑固さは筋金入りだが……」
「ねえフョードル。そんな意思の強いアレクセイの、ユリウスを拒もうとする強さと、ユリウスを欲しいと思う強さ。どっちが強いのかしら?ユリウスを大切に想う故の拒絶だとしても、長い間一途に想い続けていた恋人は、彼のすぐ目の前にいて、しかもあんなに綺麗なのよ」
「ガリーナ」
「そして、ユリウスはアレクセイを再び愛し始めているわ。アレクセイだって……。彼が戸惑う必要なんてこれっぽっちも無いわ」
まだ難しい顔をしている夫の頬を小さな手で優しく包み、ガリーナはにっこりと微笑んだ。
「大丈夫。愛は理屈じゃないわ、フョードル」
愛は理屈じゃない……か。
そうなのかもしれないな。自分しかり、そしてミハイルしかり……。
ズボフスキーは、妻のふっくらとしたお腹に優しく手を添え、艶やかな黒髪にそっとキスをした。
無事にイワンに持たせる塊肉を切り分け、包みを持ったユリウスとアレクセイが戻って来た。
「はい、イワン。待たせてごめんね」
「ありがとうユリウス。ありがとうございます、みなさん」
ペコリと頭を下げ帰ろうとした時、アレクセイがイワンを呼び止めた。
「父の教え子…ですか?」
「ああ、おまえたち兄妹をミハイルに引き合わせた、もうひとりの恩人だ。今度の事は知っているのか?」
その時、さっとズボフスキーの顔色が変わったのをアレクセイは見逃さなかった。
「ん?なんだ、なにかあるのか?」
「あ……うん、いや……」
「あの、それは……」
イワンが少し言いよどむ。
ズボフスキーの顔をチラチラ見るも、いつも冷静な彼らしく無く、明らかに焦っている。
「いや、アレクセイ。その、なんだ……」
答えない方がいいんだろうか?
だけど、同志アレクセイを誤魔化すことは出来ない。
いくばくかの沈黙の後、イワンは思いきって口を開いた。
「……ゲオルギー・バザロフと言います。ユスーポフ侯爵家にスパイとして潜入していました。そこではエフレムと名乗っていたそうです。彼とは1905年の年末に連絡がとれなくなりました。聞いたところによると、ユスーポフ侯爵に諜報活動が露見して……」
「エ…エフレムって……」
小さな悲鳴と共に、エフレムの名前をつぶやいたのはユリウスだった。
アレクセイは、途端に厳しい顔つきになり、傍らのユリウスに目を移す。
先程までの明るい表情は消え失せ、驚きと戸惑いが彼女を支配しているようだった。
すぐ近くにいるのに、瞬時に遠くへ行ってしまったユリウスの震える肩を抱き寄せてやることが出来ず、アレクセイはただ拳を握りしめる事しか出来なかった。
(3 へ続く)