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BYAKUYA-the Withered Lilac-

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Chapter1 虚無との邂逅


 蒸し暑く、寝苦しい夜。
「……うーん、んん……」
 学生服のズボンに、胸元を大きくはだけさせたワイシャツ姿の少年は、呻くような声を出しながら、ベッドの上を何度も寝返りしていた。
 窓は開放しているが、風は少なく、部屋の温度は下がる気配がない。
 それでも少年は、ベッドの少しでも冷たい部分を求め、まるで芋虫のようにゴロゴロと転がり続けていた。
「んっ、んん……!」
 少年はとうとう、暑さに堪りかねて、腹部に僅かにかかっていた毛布を払いのけて目を覚ました。
 起き抜けで意識がはっきりしない中、少年はゆっくりと瞬きを繰り返した後、むくりと上半身を起こした。軽く目眩を感じ、額に手を当てる。
「……あれ、いつの間に寝てたんだろ?」
 まだ意識は朦朧としており、夢か現実か、いまいち判断がつかない。
 しかし、自室を見渡す内に、意識はだんだんとはっきりしていく。
 特になにもない部屋である。少年が寝ていたベッドの他には、簡素な机、その机を購入時に一緒に付いてきた本棚、もう普通には使えなくなったブラウン管のテレビ、ラックの下にはもう滅多に触らなくなったゲーム機がある。
 床に散乱しているものはない辺り、清掃は行き届いていると思われる。しかし、一つだけ無造作に放り投げられているものがある。
 それは、革製の学校指定の手提げ鞄であった。年頃の少年が持つものにしては飾り気がないが、一つ、フェルトのキーホルダーが付けられていた。
 青い生地に黒く文字が刺繍されており、それには『BYAKUYA』と記されていた。地味な鞄ながら、そのキーホルダーだけは大切にされてきた形跡があり、恐らくこれが少年の名前であると思われた。
「ああ、そうだった。寝たんだった……」
 少年、ビャクヤはだんだん甦ってくる記憶を呟いた。
「夢なら。夢でなら姉さんに会えるかもって思って寝たんだっけ……」
 ビャクヤは、大きく溜め息をつきながら膝を抱える。
 夢はビャクヤの希望を受け入れてはくれなかった。ビャクヤの見た夢、それは彼の言う『姉さん』が現れることはなく、無機質な、真っ白な世界にビャクヤ一人が立っている。それがずっと、永遠に感じるほどに続くだけだった。
――もう何回目だろうな。こんな夢見るの……――
 ビャクヤは眠る度に同じ夢を見て、そして目覚めては、希望を聞き入れてくれない夢を呪う。
 ビャクヤはふと、壁に貼ってあるポスターに目をやった。
 ポスターには、妙齢の少女の姿が写っていた。複数枚貼ってあるポスターは、全て同じ少女のものだった。
 黒いセーラー服に身を包み、頭には百合の花飾りを着けている。見目麗しく、優等生といった雰囲気の、優しい文学少女といった感じである。
 ポスター写真は、まばゆい笑顔を向けるものもあれば、はっと驚いたようなもの、更には顔を紅潮させ、下着姿で官能的な構図のものまである。
――夢でもいい。夢でもいいから。もう一度会いたいよ。姉さん……――
 写真に写るビャクヤの姉さんは、もう二度とビャクヤと会うことはできない。
 あれからもう、幾千、幾万年と時が経っている気さえするが、実際にはそんな時間が過ぎているはずがなく、ほんの数週間前の出来事であった。
 ビャクヤの姉さんは、不慮の事故により、この世を去った。
 以来、ビャクヤは茫然自失となり、無意に時を過ごしている。時間という実体のないものだけが、ビャクヤの心の傷を癒す手段であった。
 しかし、ビャクヤには待てど暮らせど、傷が癒えている感覚を得られる事はなかった。
 ビャクヤと姉さんは、いつも一緒だった。
 両親を早くに亡くしたビャクヤにとって、姉さんは姉であり、また母親のような存在であった。
 両親が亡くなり、二人は別々の親戚のもとに預けられそうになったが、ビャクヤの姉さんはそれを断固として拒否し続けてきた。
 たった一人の家族との離別を拒む彼女の意思に押し負け、親戚は子供二人暮らしを許し、親権だけを得て二人を見守ることにしたのだった。
 それからビャクヤと姉さんは、二人仲睦まじく暮らしてきた。両親が遺してくれた家を大切にし、家事も二人分担しながらこなしてきた。
 二人は姉弟というよりも、最早夫婦といえそうなほどに互いを愛し合っていた。
 また、ビャクヤと姉さんは、とても対称的でもあった。
 姉さんは交友が得意で友人は多く、また成績も常に上位に入るほどの、まさに絵に描いたような優等生ぶりであった。
 勉強と家事の両立がしっかりとできており、決して怠けた様子をビャクヤに見せたことはなかった。
 対するビャクヤは、優秀な姉さんとは正反対であった。
 容姿だけは姉さんに似て、整った顔立ちで、少しばかり色白で、それなりに背も高くすらりとした体型の美少年といった姿だったが、中身は怠惰だった。
 学業や交友全てが、彼にとっては面倒な代物だった。友達らしい友達はおらず、授業も真面目に受けない。当然成績も下から数えた方が早いほどの劣等生ぶりであった。
 周囲から蔑まれることも多々あったが、全てどうでもよいことだった。
 ビャクヤにとって、姉さんこそが全てで、生きていく理由でもあった。それゆえに、姉さんが絡めばビャクヤの怠惰な性質は変わっていた。
 姉さんがビャクヤの低成績を危惧し、指導するとなった時は、ビャクヤのやる気は上がった。下から数えた方が早い成績も上位に食い込むまでは行かないまでも、真ん中よりも少し上にまで向上した事もあった。
 交友関係が面倒で、仮病でも使って学校をさぼろうとしても、姉さんが起こしに来てくれる限りはそんなことはしなかった。
 それほどまでにビャクヤにとっての姉さんは、絶対的な存在だったのだ。
――なのにどうして……――
 ビャクヤは毎日のように、姉さんとの最期の日を思い返す。
 二人揃って帰宅しようというときに、姉さんは買い忘れたものがあると言って、ビャクヤを置いて一人でどこかへ行ってしまった。
 その時ビャクヤは、この上ない胸騒ぎを感じた。姉さんと別行動を取ることは、学校等もあっていくらでも機会はあった。しかし何故か、あのときばかりは姉さんと今生の別れになるような気がしたのである。
 ビャクヤは、姉さんの嫌がることは決してしてこなかった。困らせて、怒られるということもだ。
 しかし、あの時だけは姉さんを困らせればよかった。あの時だけは、後でいくら怒られようともわがままを言えばよかった。
「うう……っく……!」
 ビャクヤは、後悔の念がわき、あの変わり果てた姿の姉さんを思い出し、嗚咽を漏らした。
 ビャクヤは姉さんを探し回って体力尽きかけた時、街中に人だかりができているのに気が付いた。
 ただの見世物だ。どうせくだらない大道芸でもやっているのだ。そんな風に自らを騙そうとしたが、そんなものは全くの無意味であった。
 人だかりの中からは、ビャクヤに更なる追い討ちをかけるような声がした。
――はねられたのは、女の子ですって。
――私近くで見ちゃったわ。セーラー服の女子高生だったわ。
――まだ若いのにかわいそうにねぇ……
 交通事故であることは、ビャクヤには既に分かりきった事だった。しかし、被害に遭ったのは姉ではないことを最後の最後まで信じ続けた。
作品名:BYAKUYA-the Withered Lilac- 作家名:綾田宗