最後の良心
ゆるやかに流れる川面に、穏やかな光がきらきらと跳ね返っている。
メッサーナの北、ヨルド海に面したファルスは、堅固な砦を擁する町である。町のそばには河畔林に囲まれたイスカル川が流れ、自然要塞の体を成している。
宿の裏手を流れる川をぼんやりと見つめていたポールは、小枝の折れる音に後ろを振り向いた。
「エレン」
川岸はゆるやかな斜面となっており、周りの木々の枝を掴みながら、エレンが軽やかに駆け降りてきた。
「こんな所にいたの」
見上げた笑顔がまぶしく、ポールは目を細めた。
「ここにいるのがよく分かったな」
「部屋の窓から見えた気がして」
そう言って、すとんと隣に腰を下ろす。ほんの数日前に、あのような状況で旅を共にするようになったのにも関わらず、さばさばと屈託のない彼女に、ポールは好感を抱いていた。
といっても恋愛感情ではない。思わず目を引くほどの美人であり、すらりと引き締まった体もとても魅力的だ。
しかし色気を感じるには、彼女はあっけらかんとし過ぎ、ついなんでも相談したくなる女友達のような存在となっていた。そこがまた、彼女の魅力でもあるのだが。
「ハリードさんは?」
「それがさー」
エレンは両手で膝を抱え、川面を見ながら肩をすくめた。
「スタンレーと同じように、この町でも傭兵の募集をしてるでしょ? 軍の偉いさんとでも話し込んでるのか、どっかに行ったまま帰ってこなくて」
スタンレーが野盗を使って交易を妨害していたため、ファルスとスタンレー間の情勢は緊迫している。
先に訪れたスタンレーでも軍に入ることを勧められたが、ハリードは返事を保留にし、その足でファルスに来たのだった。
「ハリードさんの正体が、あのトルネードだって分かったんじゃないか? 先のロアーヌ内乱時での活躍の噂も、すでにここにも届いてるだろうし」
「どうだか。あのがめついおっさんのことだから、値上げ交渉でもしてるんじゃない? どっちにつくのが得かじっくり考えてるに違いないわ」
エレンの言葉に苦笑を浮かべたポールだったが、ふと、あることを思い出した。
「ハリードさんは、ピドナの近衛軍団長ルートヴィッヒと何か因縁があるって言ってたよな?」
唐突な言葉に、エレンはきょとんとポールを見た。
「うん、確かそんなこと言ってたわね。詳しいことは言いたがらないから私もよく知らないんだけど、昔からの知り合いだったみたい。それがどうかしたの?」
ロアーヌからランスへと二人で旅をしていたエレンとハリードであったが、エレンはハリードの過去をよく知らないという。話したくないなら聞かなくてもいいというのがその理由らしい。
見かけによらず奥ゆかしい配慮が出来るんだなと感心したら、苦笑いをしながらエレンはこう続けた。
(あまりに重過ぎて、興味本位には聞けないよ。普段は平気そうにしているならなおさら。昔のあたしなら、力になりたい、元気付けてあげたいと思って色々聞いたかもしれないけど、旅に出る前に妹の本心を聞いて、お節介もほどほどにしなきゃ、って反省しているところだしね)
だからポールもハリードの過去について、本人からは何も聞いていない。
しかし、裏の世界にいれば様々な情報が手に入る。ゲッシアが滅びた経緯に神王教団という宗教団体が関わっていたこと、そして現在、ピドナの最高権力者となったルートヴィッヒが神王教団の布教を容認していることは、ポールも耳にしていた。
「確かスタンレーはルートヴィッヒの直轄地だったと思うんだ。となれば、ハリードさんがスタンレーにつくとは考えにくいな。ファルスについてスタンレーを併呑し、より強力となったファルスをけしかけてルートヴィッヒに対抗させる……つもりじゃないか?」
エレンは考え込むように額に指を当て、それから切れ長の瞳でポールを見つめた。
「嫌なことを思い出させるようで悪いんだけど、スタンレーは本当に野盗を使って交易を妨害してたの?」
その言葉にポールは苦笑いを浮かべた。
「気を使ってもらわなくてもいいさ。おれが野盗にいたことは事実なんだし。ただその質問の答えは、分からない、だ。下っ端のおれたちには何も知らされなかった。おれたちはお頭……あのくそ野郎の言うがままに荷物や旅人を襲っていただけだから」
知らないうちに語気が激しくなってしまっていたようだ。
エレンはじっとポールを見つめていたが、小さく「ごめんね、嫌なこと思い出させちゃって」とつぶやき、目をそらせた。
「あ、違うんだ」
ポールは慌てて言った。
「ごめん、エレンはちっとも悪くないんだ。ばかだったおれ自身に腹が立っているだけだから」
身を乗り出して弁解するポールに、エレンは軽く肩をすくめた。
「うん、分かってる。今のその怒りがポールの悔いそのものなんだよね。でも……」
膝の上で組んだ手首にあごを乗せて、考え込む。
「野盗の話が本当かどうかは別として、ファルスがスタンレーに勝ったとしたら次はファルスとピドナとの戦いになるの? ハリードはファルス軍の傭兵隊長としてルートヴィッヒと戦うのかな?」
「うーん、それはどうかなぁ?」
ポールは両手を後ろについて空を見上げた。戦がすぐそばに迫っているかもしれないというのに、木々の間から見える青い空にはぽっかりと白い雲が浮かび、風の音に似た川のせせらぎが耳に心地よい。
ようやく、穏やかな景色を楽しむことが出来るようになった自分がいた。野盗にいた頃は、反吐が出るような切羽詰った気分の中、常に耳鳴りがしていたものだが――。
「ハリードさんとルートヴィッヒの間に何があったのか分からないけど、この争いには何かもう一つ噛んでいる気がする。ファルスとスタンレーが争うことで得をする別の何かが」
エレンは眉をあげてポールを見たが、同じように両手をついて空を見上げた。
「ポールって、色々な情報に詳しくて頭の回転も速いし、弓や剣も扱えて器用だし。あたしと同じ年なのに、すごいね」
「何言ってんだよ」
ポールはエレンの言葉を笑い飛ばした。自嘲が混じった苦い笑いだった。
「すごい奴なわけないだろ。冒険者になって一旗揚げてやるって大言吐いて村を出たくせに、野盗の手先として働いてたんだぜ? おれはさ、ただのずるい奴なんだよ。要領良く立ち回るつもりで、実は楽して手っ取り早く稼ぎたかっただけなんだ。こつこつ働くことが出来ず、一発逆転を夢見てただけの怠け者さ」
おれはこんな所でくすぶって終わる人間じゃない。おれにはもっとでかいことが出来るはずだ。
そんな焦りや苛立ちに急き立てられるような気持ちで、ニーナに頼んだ。
(ニーナにはもっといい暮らしをさせてやりたいんだ。きれいな服を着て、おいしい物を食べて、大勢の者たちにかしずかれる生活を送らせてやりたいんだ。だから、おれは行くよ。冒険者として成功し、きっと帰ってくる。おれを信じて待っていてくれ)
彼女にかこつけた身勝手なおれの頼みを、ニーナは素直に聞き入れてくれた。
(私はポールがそばにいてくれればそれでいいの。でも、ポールが行きたいなら行ってらっしゃい。無事を祈っているわ)