最後の良心
ポールは口元にゆがんだ笑みを残したまま、足元の切り株に目を落とす。
「あのさ、流れの傭兵家業してると、悪事に引き込まれることも多いんだ。おれみたいに野盗の仲間になる、から始まって、悪党の用心棒や、殺し屋なんて仕事もある。簡単そうに思える運び屋だって、中に何が入っているか知らされないことも多い」
小さなため息をつきながら切り株に足を掛け、あごを上げて新緑の梢に目を移した。
「でも、おれにはニーナがいた。ニーナはおれの、最後の良心なんだ。ニーナのことを思うたび、こんなことじゃ駄目だって踏み止まれた。彼女が心の中にいたからこそ、同じ年恰好のエレンが捕らわれたのを見過ごすことは出来なかったんだ。もし、捕らわれたのがニーナだったら――そう想像すると、いても立ってもいられなくなって、危険を冒す覚悟がついた」
そう言ってエレンに目を向け、にこっと微笑む。
「だから、ハリードさんもエレンに、最後の良心になって欲しいんじゃないかな。やけになって道を踏み外さないように。目先の損得だけで大義を誤らないように」
エレンは眉間にしわを寄せて首を傾げた。
「でも、あたしにも何が正しくて、何が間違っているかなんて分からないわよ。そんなあたしの意見をあいつが聞き入れるとは思えないわ」
「でも実際、あの、トルネードにずけずけと物を言えるのはエレンだけだぜ」
「それはそうかもしれないけど……」
「難しく考えることないんだよ。そばで、笑ってるだけでいいんだ」
「何よそれ、人をばかみたいに言わないでよ」
「笑って、怒って、また笑って……エレンの顔を見てたら退屈しないし」
「やっぱり、ばかにしてるでしょ!」
ポールは笑いながら、振り上げられたエレンの拳を避けようと身を交わした。が、切り株に踵を取られて体勢を崩す。とっさにポールの腕を掴もうと、エレンが腕を伸ばしたその時、
「何やってんだおまえら。こんなひとけのない所で」
というのんきな声が聞こえ、なぜか思わず動揺してしまい――
もつれるようにエレンと共に、激しい水しぶきを立てながらポールは川の中へと落ちた。
思ったより水は冷たくなく、即座に水面に顔を出すと、目の前に水を滴らせたうんざり顔のエレンがいる。
「大丈夫か?」
ポールが尋ねると同時に、上から笑い声が降りかかる。見上げると、枝に片手を掛けて川を覗き込んでいるハリードだ。
「そろそろ昼飯だから探しに来たんだが……泳ぐにはまだ早いんじゃないか?」
「ばかーっ、笑ってないで助けなさいよっ!」
「適当な所から自力で登って来い」
濡れた前髪を掻き上げてハリードに怒鳴るエレンを見ながら、ポールはやれやれとため息をついて空を見上げた。
「武器を部屋に置いてきて正解だったな」
ポールのつぶやきを聞いて、あきれたようにエレンが言った。
「そんなこと言ってる場合? 早く上がらなきゃどんどん流されるわよ」
「そうだな」
体勢を整え、素早く川岸に目を走らせてよじ登れそうな場所を探す。
「もうおれは流されないって決めたんだ」
心配してくれる人がいるというのはありがたいと思う。それは確かだ。
でも、大丈夫だろうかと心配されるのではなく、彼ならきっと大丈夫だと信頼される男になりたい。どんな冒険話を聞かせてもらえるのだろうかと、楽しみに待ってもらえる男になりたい。
だからおれはもう、流されない。ニーナの笑顔を守れる男になる。
少し先で、太い蔦が水面近くまで垂れ下がっているのをポールは見つけた。
「エレン、あそこから上に登ろう。ハリード、このままじゃ戻れないから何か拭く物を持ってきてくれないか」
言ってから、初めてハリードの名前を呼び捨てにしたことに気付く。
ハリードもそれに気付いたのか、口の端に笑みを浮かべながら親指を上げた。
ポールもにやりと笑って親指を立て、それから力強く水を掻きながら岸へと向かった。
――終――