秋色より尚、深く
気付けば数メートル先を歩いていた絵夢と芽夢が足を止めて同じ花を指差し、つくしのほうを振り返っていた。
双子が指差す花、それは、コスモスだった。
「コスモスね」
「うん。綺麗でしょう?」
「これをお姉ちゃまに見せてあげたかったの」
秋の薔薇が咲き始めた庭の片隅。
己を強く主張することなく静やかに、けれど秋の主役に相応しく綺麗に咲き誇るコスモス。
その姿はとても凛々しく、自信に満ちて見えた。
「うん、とっても綺麗だね」
つくしの言葉に、絵夢と芽夢は顔を見合わせ、満足そうに微笑んだ。
そして、「チョコレートが食べたいね」「ほんとねえ」と言い合いながら、また駆け出した。
つくしには二人の言う意味がわからず、思わず二人の姿を目で追う。
「ねえ、―――」
「どうしてチョコレート?」と聞きたかった。
けれどその言葉は、続かなかった。
駆け出した二人の先に、薄闇に浮かぶ東屋があった。
それが視界に入った途端、つくしの心臓がドクンと跳ねた。
ずっと感じていた胸のざわつきとは比べ物にならない大きな感情の波がつくしを襲い、気付けば東屋から目を逸らしていた。
どうしてか、見ることが出来ない。
胸が痛い。ドクンドクンと、鼓動が煩い。
「牧野、ここでコスモス見てろよ。あいつら連れて行ってくるから」
背中にあきらの声がして、返事を待たず歩いていく足音が聞こえた。
その足音が徐々に遠ざかると、つくしは思わずコスモスの前にしゃがみ込んだ。
思い出は、こんなに色褪せないものなのだろうか。
つくしの中に今はっきりと、数年前のあの日のことが浮かぶ。
総二郎とあきらに連れてこられた東屋。
外から鍵を閉められ何事かと思ったら、椅子に縛り付けられた司がいた。
閉じ込められたその状況でも、いつものように言い合いになってケンカになって、けれどそのケンカも最後までは出来ず、最終的には追ってきたSPから逃れるため、つくしは司によってバスルームの窓から脱出させられた。
逃げ帰りながら、常にSPに見張られ追いかけられ、ケンカも最後まで出来ないなんて、いったい何をやってるんだと、なんて疲れるんだと、思った。
なんともお粗末で格好の悪い思い出。
でも……―――。
( でも、ケンカもしたけど、キスもしたんだよね、あたしたち。 )
戸惑って怖がってばかりで、その関係をみんなに言う勇気の出ないつくしだったけれど、本当にこそこそとした付き合いだったけれど、つくしは司をどんどん好きになっていた。
あれは、その最中(さなか)だった。
( なんでこんなにはっきり思い出せるんだろう。もう何年も前のことなのに。もう忘れていいことなのに。 あたしから別れたのに。決めたのは、あたしなのに。 )
たくさん落ち込んだけれど、ようやく立ち直れたような気がしていた。
それが、思い出だけでこんなに心が揺れている。
全然立ち直れていない自分に気付いてしまったつくしは、途方に暮れた。
目の前のコスモスが、小さく揺れる。
桜色よりも濃い秋色の花は薄闇に映えて、「秋桜」の名に相応しく今この時を必死に咲いている。
こんなに細い茎の先に花を開いているのに、秋風に揺れる姿はとてもしなやかで、つくしはそんなコスモスに揺るぎない強さを感じた。
こんな強さがあったら、こんなにも心が痛くなることはなかったのだろうか。
( あたしは雑草のつくしなのに、踏まれたまま、起き上がれないでいるよ。 )
わかっていても、どうしたら起き上がれるのか、どうしたら立ち直れるのか、つくしにはそれがわからなかった。
「牧野」
どれくらいそうしていたのだろう。
ふいに、あきらの声がした。
「待たせたな。双子とハーブを邸へ置いてきた。俺達が通って来た道とは別に邸への近道があるんだ。もう無茶を言うやつはいないから安心しろ」
その言い方がなんだか可笑しくて、つくしはコスモスを見つめたまま、小さく笑った。
「コスモス、堪能できたか?」
あきらの思いやりの言葉に、つくしは小さく頷いた。
「コスモスって、案外いろんな色があるんだよな。ここにあるのは、おふくろの趣味で集められたものばかりだから、珍しい色が特に多いんだよ。これ、ちょっと匂い嗅いでみろよ」
あきらの指が触れたのは、しゃがんでいるつくしの左側にある黒紫色の花。
言われた通りそっと鼻を近づけると、ほのかに甘い香りがした。
「なんか、甘い香りがする。チョコレートみたい」
「そう。これ、チョコレートコスモスって言うんだ」
「……あ。」
さっきの双子の言葉の意味が、今わかった。
「わかっただろ? さっき言ってたのは、このコスモスのこと。これをおまえに見せたかったんだよ、あいつら。匂いのことまで教えなきゃ何のことだかわからないよな」
「チョコレートが食べたいね」とはしゃぐ双子の姿が浮かんで、しかも同じことを思った自分がいて、つくしは思わずくすりと笑った。
「でも、わかる。今あたしも同じこと思った」
「やっぱりな。この花が咲き始まってからあいつらに何度も何度もそれを言われて、その度に、牧野も絶対言うなって思ってたんだ」
「そうなの?」
「ああ。だからこの秋中に、絶対この花を見せようって思ってた。花が終わる前に見せられて良かった」
嬉しそうな笑みを浮かべるあきらに、そうだったんだ、と頷きながら、つくしはある疑問を抱いた。
つくしはこの一ヶ月、毎日のようにここを訪れていたのに。
( なんで、今日なの? )
「ここに、―――東屋の前に連れてくるのが躊躇われて、今まで見せられなかった」
「まさかの展開だったけどな」と苦笑い付きで欲しい答えが降ってきた。
「……またお見通し?」
「今度は声に出てた」
考えていることが実際に声になって出てしまうのは、つくしの癖。
こればかりは、いつまでたっても治りそうにない。
「俺、総二郎と一緒に悪ふざけなことしたから。ここは、おまえの中で良い思い出ばかりでもないだろうし、今は特に思い出したくないこともあるかもしれないし……な」
この人は自分を心底心配している。
表情から、言葉から、つくしはそれを強く感じた。
「悪かったな、いろいろ」
「いろいろ、って?」
「双子がわがまま言って引っ張ってきたこと。それを止められなかったこと。ここで一人待たせたこと。それから……あの時のこと。」
バツの悪そうな表情でつくしを見るあきらの瞳があまりにも優しくて、ふいに、胸の奥から何かが込み上げてきた。
つくしは咄嗟に顔を背けた。
涙が、今にも溢れ零れてしまいそうだった。
司に別れを告げたあの日。
つくしはあきらの腕の中で思いきり泣いた。
泣いて泣いて、瞼が腫れ上がって目が開かなくなるまで泣いて、そしてそれ以来、泣くことはなかった。
切なくて苦しくて泣きたい時はたくさんあったのに、心が泣いていると感じる瞬間もあったのに、どうしてか涙だけは出なかった。
常に胸に何かが痞えているような気がして、苦しくてたまらなかった。
思いきり泣いたら、この痞えは取れるのだろうか。それとも二度と立ち直れなくなってしまうのだろうか。
根拠も意味もない考えが頭の中をよぎって、やっぱり涙は出なかった。