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08:かみさまの死因

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 三日月を横に転がしたような、そのまま雲隠れしてしまいそうな、そんな唇から、こぼれ落ちる「いらっしゃい」という言葉は、不思議と此処が自分の原点なのだと感じさせる。別に、おかえりと言われたわけでもないのに。久しく聞いてない言葉を思い浮かべてしまって、記憶から振り落とすように沙樹は首を振った。沙樹から見える彼の人の背は、何も語ってはくれない。それでも沙樹はその背に誘われるように、薄暗い部屋へと進む臨也の後を追った。背後でオートロックのドアが閉まったのにすら、気づかずに。


 促されるままに、黒い革張りのソファに腰掛ける。このあいだまであれほど慣れ親しんでいたソファは、知らないうちに新しいものに変わっていた。つるつるする。沙樹は、よそよそしいソファの皮を指先で撫でて、それから、前まであったソファの触り心地を思いだそうとしたのだけれど、表面がすり減っていたことだけしか、記憶には残っていなかった。触り心地どころか、その正確な色も形も、思い出せない。「最近新調したんだけど、気になるかい?」という臨也の問いには「少しだけ」と返した。どうせ、そのうち忘れてしまう些細なことだったのだろうけれど。ただ、臨也を見ているとやはりソファは前も真っ黒だった気がする。この人は黒を選ぶのだ。彩るものを知らないように、ひっそりとこの部屋は池袋の片隅にある。夜を流し込んだような、この部屋。窓の奥の昼間はざわざわとブラインドを揺らす。喪失ではない、ただ隔離されただけだ。沙樹はそう知っている。コトリ、とテーブルの前にコップが置かれて、沙樹はこの部屋の主を見上げた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして?」
 この人が、エスパーじゃなくて、かみさまだったらいいのに。それは、臨也と出会って、自分の周りに広がる世界を受け入れるに当たって、沙樹の手元に残った唯一の願望だった。けれど今、もう一つ、願いとも、ともすればすべてに絶望してしまいそうな思いが沙樹の中に生まれている。久しく来てなかった臨也のマンションへ沙樹が足を運んだ理由が、それだった。
 臨也は全部悟っているかのように微笑むと、ゆっくり手を伸ばして沙樹の目にかかっていた前髪を横に流した。額に触れた指先は、冷たい。ぴくり、と身体を強張らせると、「ごめんね」と声が降ってくる。その言葉が、冷たい手で触れたことに対する謝罪なのか、かみさまでいてほしいという沙樹の期待に対する憐憫なのかは、わからなかった。あるいはその両方なのかもしれない。直ぐさま離れた指先から伝わったそれを、沙樹は目を閉じて甘受する。ただ、受け入れる。
 そして、ゆっくりと目を開いたときには、彼はテーブルを挟んだソファに座っていた。夜の帳にふさわしい綺麗な手が冷たかったのは、元からなのか、それとも、沙樹のための飲み物を準備してくれたときに冷えただけなのかも、沙樹は知らない。ただ、沙樹は、彼が沙樹一人の分の飲み物しか用意しないことを知っている。真っ白なプラスチックのコップに、オレンジジュース。沙樹は目を細めて少しばかり口にする。オレンジ果汁百パーセントと書いておきながら、香料が混じっているそれ。純粋であるだけじゃ、この世界を生きるには不十分。ああ、彼は、何でも知っている。香料に味があるのかなんてわからないけれど、もしあるのならそれは苦いに決まっている。バニラエッセンスだってそうだ。そして多分、――――。沙樹は静かに納得する。誰もが綺麗なものばかり見て、後ろめたさになんて気付かない。
 そう、確かに臨也はかみさまじゃない。けれど沙樹にとっては、彼は「理由」だった。今笑う理由。泣く理由。彼は全部与えてくれた。ただ、憎むということを除いては。彼は、それでいいのだと、微笑んでくれた。彼は、私にすべてを許して受け入れる術を教えてくれた人は、きっと可哀相な人で、だからこそ自分に手を差しのばしてくれるのだ。臨也は光ではないから、沙樹は安堵する。汚いところを照らさずに、ただ寄り添ってくれるから、安心して、彼に托す。願望も、恐怖も、悲しみさえも。もっとも、沙樹にはそれらを感じる器官が、本当に自分の中にあるのかすらあやふやだった。だから、時々考えてみる。もし、心というものがあるならば、自分のそれは鏡のようなものなのだろうと。
「そういえば紀田君は元気だったかい?」
 オレンジジュースを手にしたまま、固まってしまった沙樹に、臨也はそんな問いを与えた。ああ、やっぱり臨也さんはなんでも知ってるのだろう。
「臨也さん、私……、」
 なんと言えばいいのだろうか。言葉を探す沙樹の前で、臨也がふふ、と楽しげに口元を歪ませる。視線をあげて、沙樹はその表情に見覚えがあることに気がついた。そして、息を呑む。それは、臨也が「人」を見る時に見せる目だったからだ。そして、沙樹に向けられたことがなかった目だったからだ。少なくとも、沙樹が気づいているところでは。こてん、と傾けられた首は道化のように。
「そうだね、手でもつないであげようか? それとも抱きしめてほしいかい?」
 そこで臨也はテーブルに手をついて、ぐい、と沙樹に顔を寄せた。がたり。下からのぞきこんで来る赤い眼は興奮に揺れている。沙樹はそれを、ただただ綺麗だと思う。それから、コップを手に持っていてよかったなあ、と。元より彼が返事を求めているわけではないと知っている。それが沙樹に関する臨也の常だ。臨也は手に力を入れて勢いよく身体を起こすと、感情の高ぶりに耐えきれないように身体を大きく震わせる。
「人間は愛しいなあ!」
 ぴりぴりと空気のぶれが鼓膜を打つ。躍り出さないことがいっそ奇妙なほどに上機嫌な臨也を前に、沙樹はといえば、穏やかに微笑んでいた。臨也の口ぶりは、彼が沙樹の内心の動きを知っていると、その多色の言葉を操る薄い唇が答えを知っていると、確信させてくれたから。
「あるいは陳腐な恋愛小説のように、両手で抱きしめて、ずっとそばにいるよと耳元に囁いてあげるのもいいかもしれない」
 恍惚とした顔で、うっそりと笑う。弧を描く口許も、細められた眼も、やっぱり三日月にそっくりだった。あるいは皮膚を切ったときに、ぷくりと血が玉を作る様子にも似ていた。けれど痛いと思わないのは私がどこか麻痺してるのかしれない。沙樹はそう思う。
「臨也さんが私をですか?」
 それはひどく不思議な思い付きのように思えた。それはハッピーエンドに行き着くはずがないし、悲劇にも成り得ない。だって、それはただの喜劇だ。人を好きだと、愛しているとうそぶく唇は、沙樹に対して愛を囁かない。
「おや、不服かい?」
「いいえ、意外だなって思って」
 くすくす笑うと、臨也も笑った。クツクツと、喉の奥に転がすような笑い方で。

作品名:08:かみさまの死因 作家名:きり