キス10題(前半+後半)
「 1頬に「さよなら」のキス 」
なだらかな坂に逆らって、まっすぐに歩いた先にあるのは広い広い公園。ちょっとした丘になっていて、日本であれば山と呼ばれるほどの大きさのその頂にあるのは、ここの時間を基準に、世界があわせていく、そんな場所。
赤レンガの建物が並ぶ。バーや、時計屋さんや、ガラス細工屋さんも見かけた。家族連れから学生から老夫婦から、人は少なくない。賑やかな通りを抜けて、黒い鉄格子の門と抜けて、広い芝生へ踏み入れる。まだ寒い春、けれど芝は青く、グリニッジの空の下に明るく生きている。どこか適当に座って休もうか。そう訊ねられたけれど、登ってしまいたかった。頂に上って、そこからこの街を見てみたかった。勾配の急になった道の途中に、小さなベンチ。そのディティールがここが英国だと伝えているようで、口元が緩む。小さな子どもが走り降りてくる。顔ほどもある大きさの赤いボールを追いかけていく。転げはしないだろうか。ほほえましくもあり、少しだけ不安でもあり、隣を歩く人に目配せする。元気がいいな。そうですね。細い、濃い色をした木がそこかしこから天へと伸びている。ふ、と眼に止まって「あ」声をあげる。
「どうした?」
「ほら、リスです」
「あぁ、本当だ。珍しい、か?」
「どうでしょう。東京の真ん中では、まず見なくなりましたけれど」
「そんな所にいたら、学者もびっくりだな」
笑いあって再び歩みを進める。
「可愛いですよね、リス。普段の生活の中で、眼にしたりとかしたいものです」
「まぁな。リスを可愛いと思う日本の方が俺には可愛いけど」
「さっきの、セントポール大聖堂でもリスを見かけましたね。羨ましい」
「街を歩いていて偶然日本と出会うほうが、」
「わかりましたもういいですから」
「遮ることないだろ。言わせてくれたって、罰は当たらない」
「イギリスさんは平気でも、私が恥ずかしいんですよ。まったくもう」
そんな話をしたのがもう4時間も前か。
少しだけ観光をして、そのままグリニッジの街でイギリスと別れた。それぞれの仕事のためだ。それを片付けた日本は、適当に入ったカフェでお茶を飲み時間をつぶしていた。これを飲み終えたら本国へ帰る。だから、さっき(というにはいささか前だが)までの時間が、最後のデートだったのだ。ここからヒースロー空港までは遠い。渋滞につかまらないように、電車を乗りつぐつもりでいる。イギリスの家へ、少しだけ私物を置いていることもあって、それほど荷物は多くない。けれど、彼がいれば、もう少し軽くなるのに、と思ってしまう。
春とはいえまだ寒い。センチメンタルにもなろう――
ふと窓の外をみやると、ほほえましい光景が目に飛び込んできた。
学校指定のナップサックを背負った制服姿の少女が坂の下から走ってくる。少し遅れていた同じ背格好の少年がやがて追いつき、少女の腕を引く。振り返った彼女に、彼は外さずにキスを贈った。ぱっと離れて、少年が来た道を駆け下りていく。
まるでロードムービーでも見ているかのような絵に、思わず笑みが零れる。
温かい紅茶の入ったカップに添えて温まった手が、自分の頬に触れる。そしてフラッシュバックする。
『日本、気をつけて帰れよ』
『はい。お世話になりました。お仕事頑張ってくださいね』
『おう。任せておけ。日本ならいつでも養えるくらいに働く』
『言ってて本当に恥ずかしくないですか?』
『俺が言うのに、どうして日本が照るのか、そのほうがわからない』
『話しに、なりませんねぇ』
『今度じっくり話し合おうな。それじゃあ、着いたら連絡してくれ』
私が見送ろうとしているのに、彼もまた同じだったようで、お互いに動かずにいた。そのことに気がついて、二人で笑った。
『行かないと、遅れてしまいますね』
うなづきあって、別れるはずだった。それを、イギリスが阻む。手を掴まれて、え、と見上げたとき、頬に温かいものが触れた。あ、キス。そう思ったときにはすでに離れていて、「またな」と歩き出していたイギリスの背中を日本はあっけに取られながら見送ったのだった。
――あ、ああ、
思い出してしまって、頬に熱が集まっていく。
この熱を抱えて帰るのか。なんて憎い、さよならのキス――
......END.
作品名:キス10題(前半+後半) 作家名:ゆなこ