二次創作小説やBL小説が読める!投稿できる!二次小説投稿コミュニティ!

オリジナル小説 https://novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
二次創作小説投稿サイト「2.novelist.jp」

壱鬼夜行

INDEX|1ページ/2ページ|

次のページ
 
赤木屋(あかぎや)のしげるには親がない。
 まさか木の又から生まれたわけでもあるまいし、生んだ女はいるにはいたが、しげるを生んですぐに死んでしまったらしいから、しげるは母の顔を知らない。
 女たちは同輩が残していった嬰児を、自分が産めなかった子供らの代わりに代わる代わると愛してはくれたけれども。
 私娼が産み落とした赤ん坊は、もちろん店主にとっては厄介者以外の何物でもなかったが、女たちがそれぞれに庇ってくれたおかげでどうにかこうにか生き延びた。
 他に生まれ育てられた子供はなかったが、誰かしらは乳が出たから、腹を空かすことだってなかった。
 むしろ、子供がなければ乳が張るばかりだからと、しげるはずいぶん大きくなるまで乳を吸わされていたものだ。
 しげるの母は売れない私娼であったらしい。
 腹の内を見透かすような鋭い目つきと、どうにも太れない痩せぎすの身体は、戦地帰りの兵隊さんたちにはお気に召さなかったものらしい。
 煮炊きの腕もよくはなかったが、幸いそこそこ手先は器用だったので、女たちに申し訳に出る飯の下ごしらえや洗濯や繕いが主な仕事だったらしい。
 器量はともかく愛想がないのが売れない理由で、けれど同じ境遇の女たちからしてみれば、優しいところもある女だったらしい。
 女たちが思い悩んでいると、そっと傍に寄り添って、黙って話を聞いてくれる猫のような女だったらしい。
 らしいらしいというのは、それらがすべて伝聞に過ぎないからだ。
 猫のようと称された女は、それほど腹の出た様子もなかったのに、ある日突然、ぽこりとしげるを生んだのだそうだ。
 それこそ猫の仔のように。
 しげるという名は元は女の名だったそうで、母がしげるにくれたのは、この名と身体、そして、しげるを憐れんで育ててくれた優しい女たち、そればっかりだった。
 GHQによる公娼廃止令が出たのは、しげるが生まれた一年後のこと。
 しげるの母が生きていれば、その後小料理屋に看板を付け替えた赤木屋で、きっと重宝されたろうにと、芋の皮を剥きながら、あかぎれた指の女がぽつりと呟いた。
 小料理屋に看板を付け替えたといっても、それは表向きだ。
 もちろん料理屋なのだから、煮炊き物と酒の支度はあるが、一番の売り物は飯盛女だ。公娼廃止令と共に、私娼も厳しく取り締まられることにはなったが、人の欲望が一朝一夕に変わるわけがない。
 女に飯が付いてきたのが、飯に女が付いてくるようになっただけのことだ。美味くもない飯を食いに来るのにはそれなりの理由がある。
 しげるはふぅん、と聞いているのかいないのかわからない返事をして、その横で熱心に蟻を潰していた。六対の足をもいでも、腹を潰しても、まだうごうごと蠢いていて、それが不思議だった。
 女は「あまり無体をするでないよ」とは注意したが、別に止める気もなさそうで、時折同じ姿勢で凝った腰を伸ばしながら、ひたすらに芋を剥き続けた。この女は容貌に難があったためか、それとももう歳が歳だからか、ほとんど客が付かなくなり、こうして煮炊き物の下拵えをするのが今の主な仕事だ。この辺りの店にはそういう女もいる。
 際限なく芋を剥くのが面倒で、死んでしまったしげるの母はそれから逃げられたような気がして、恨み言の一つも言ってみたくなったのかもしれない。
 しげるはしげるの母が残した遺児でありながら、半ば女たち全員の子でもあった。女たちはそう簡単に子を産ませてはもらえなかった。
 腹の膨れた女では商売にならない。
 酸漿で、冷たい水で、水銀で、あるいはもっと簡単に目立ち始めた腹を殴られて、女たちは子を失った。
 空っぽになった腹を抱えて咽び泣く女がいれば、しげるはそっとその女の褥に押し入れられたし、どの女たちも時々しげるを抱え込んで離さなくなった。そんな時、しげるは聞こえる鼓動にぼんやりと耳を傾けながら、女たちが纏う香の匂いに嫌気がさすのだった。
 女たちの中で、ひときわ優しい女がいた。
 優しいから、可哀そうな水子でも寄ってくるのか、人一倍孕みやすい性質で、しょっちゅう腹を膨らませては、ひっそりと子を流すのだった。
 産んでやれなかった自分の子にしげるを重ねるのか、女は特にしげるに優しかった。
 虫が苦手なのに殺生をするのは哀れだからと、部屋に虫が出れば、しげるを呼んで懐紙に包んで逃がせと頼む。その度に小遣い銭をくれる。
 しげるはいつだって逃がすのも面倒で、こっそり懐紙の中で潰してしまったものだけど。
 客に菓子を貰えば、それだって「しげるさん、しげるさん」と呼び寄せては渡して寄こした。
 そんな女だった。
 優しい女には、よく弱い男が好んでついた。
 それらの男は、連れ立ってきた友にはへこへことする癖に、店の者には人一倍居丈高だった。
 それでも女は「本当は優しい人なの」と、詠うように言っては裏切られた。何度も騙されるくせに、何度も信じてまた裏切られた。そういう客は大抵金がないどころか、客で来たくせに、いつしか女に金をせびるようになった。
 そんな女が落ち着きを見せたのは、ある男が付いた時のことだった。この男は、店の者たちにも強く出ることはなく、女の元に通う時も、よく泣くのだという。自分の胸で泣く男が可愛いと、女は目を細めた。
 男はどこぞの商家の一人息子で、金だけはあるようだった。
 それなのに、悪所の中でも一段落ちる赤木屋に通うのは女のためだった。一度悪友に連れてこられた時に、付いた女がよほど忘れられなかったものらしい。
 近いうちに身代を継ぐから、そうしたら身請けをしてやると誓い、せっせと女の元に通った。
 ほどなくして女の胎にまた子が宿った。
 男は誰の子でもよい。きっと自分の子だと喜び、産んでくれと言った。
 きっと、きっと、迎えに来るから。
 近いうちに迎えに来るという男の言葉を信じた女は必死に子を隠した。
 他の女たちだって協力してくれた。
 女はひっそりと腹を撫でては幸せそうに笑って、自分の腹に語りかけていた。
 しげるはそんな女の様子を見るのが好きだった。
 ぼんやりと、自分の母もこんな風に自分が産まれることを望んでくれたのかと考えると、胸の辺りがほっこりと温められているように感じるからだ。
 この度ばかりは、女は孕んだことを『失敗した』とは言わなかった。
 女の腹が目に見えて目立ち始めた頃、ふつりと男の足が遠のいた。
 また騙されたのだ、と他の女たちは言った。多分それは、飽きるほど繰り返されたよくあることの一つだった。
 それでも女は男を信じていた。
 男の身にもしや何かあったのかもしれない、と重くなり始めた身体で足抜けを試みた。
「しげるさん。私、逃げようと思うとるの。きっと幸せになるからね。幸せになったら、今度はしげるさんを迎えに来てあげる」
 女は逃げ出す前にしげると指きりをした。
 けれど、女はすぐに捕まった。
 街に出てすぐ、睦まじげに妻と歩く男を見て、足が竦んだからだ。
 男は家人に勧められて、良家の娘を娶っていた。
 誰が見ても仲睦まじい夫婦だった。
 立ちすくむ女に気づくと、眉を顰め、追いついた亡八らに女が罵られるのを見て、怯える妻を庇いまでした。
 店の外に出た女は異物でしかなかった。
作品名:壱鬼夜行 作家名:千夏