彼方から 第一部 第六話
第六話
「う……」
床に倒れ込んだままのイザークの、その黒髪までもが、彼の体の調子の悪さを表すかのように、重そうに、その身に纏わりついている。
「く」
苦しそうな声音と共に、それでも何とか、イザークは床から体を起こした。
――今、何て言ったんだろう。すごく恐い顔して怒鳴った……
彼と共に過ごした日数は、今日を入れても僅かに三日。
だが、これまでにイザークが自分に対して怒鳴ったり、恐い顔を見せた事など、一度もない。
あれだけの迷惑を掛けているのに――
――あたし、何か悪いことしたんだろうか、ど……どうしよう……
よろめきながら、イザークは壁を支えに立ち上がる。
何をどうしてよいか分からず、ただ不安で、怖くて、ノリコは怒鳴られ固まった状態のまま、彼を見守るしかなかった。
荒い息で、苦しげな表情を見せ、壁に寄り掛かり、辛うじて立っている状態のイザーク。
その眼に、不安で、怯えて、それでいて心配そうに、体を竦ませて自分を見詰めるノリコが映る。
イザークの表情が緩んだ。
「…………すまん」
恐らく、己の、彼女に対する行動を恥じ、責めているのだろう――悪い事をしたと。
このような状態になったのは、彼女のせいではないのだから。
ノリコから顔を背け、イザークは謝っていた。
≪あの……≫
ベッドへとなんとか移動し、ドサッ……と、腰を下ろす。
「大丈夫だ」
ノリコの声掛けに、端的にそう返すイザーク。
≪…………≫
自分が頼りにされていない事など分かっている。
ずっと、自分がイザークを頼りにしてきたのだから。
だからと言って、このまま、放っておいて良いとは思えない。
何ができるだろう……いや、何かしなくてはいけない――自分の体が、少し震えているのが分かる。
≪あ……あたし、お医者さん呼んでくるっ!≫
ノリコは、洞窟の中でイザークについて行くと言った時と同じように、両手で小さく拳を握り、彼を真っ直ぐに見詰めて、そう言っていた。
彼女が何か言っているのに反応して、イザークは顔を向けた。
何を――とでも言うように。
≪お医者さん、昨日のほらっ! こんなひげはやして、こんなはえぎわして、恰幅のいい、あそこ行ってくるっ!≫
そのイザークに、ノリコは一所懸命、身振り手振りを加えて、言いたい事を伝えようとしている。
≪待っててね!!≫
それが、イザークに伝わったのかどうかを確認することなく、ノリコはドアを勢いよく開けると、部屋を飛び出していった。
「…………」
何かを懸命に伝えようとしていたのは、その表情やあの身振り手振りを見れば分かる。
今の状態では、言うだけ言って行ってしまった彼女を、ただ見送るしか出来ない。
一人で行動するノリコに、一抹の不安を感じながらも。
――あんなイザーク、初めて見た……
――とても辛そうで……きっとただ事じゃないわ
ノリコは宿を飛び出て、昨日立ち寄ったあの医者の家を捜し始めた。
――ああ、昨日顔色が悪いと思ったのは、気のせいじゃなかったんだ
――え……えーと、これからどっち行くんだっけ、あの時、暗かったから……
飛び出て来たまでは良かったものの、医者の家までの道のりを、碌に覚えていなかったことに気づく。
夜に見る町並みと、昼の景色とでは、確かに雰囲気や印象が違って見える。
少し、迷いそうになっていた時……
「おや」
と、聞き覚えのある声に、ノリコは振り向いていた。
――お医者さんっ!!
「昨日の子だね、丁度良かった。今、町長と一緒にきみ達を捜していて……」
手を軽く上げて、にこやかにそう話しかけてくる医師。
共にいる男性は、『町長』と言われるだけあって、貫録とそれなりの威厳があり、少し派手な服装をしている。
≪お医者さん! お医者さん来て! イザークが!!≫
ノリコは医師の話に耳を傾けることなく、その腕をがしっと掴んでいた。
医師と一緒にいる男性の事など、視界に入ってもいないのだろう――半分、泣きそうになりながら。
≪イザークが変なの、具合が悪そうなの≫
ぐいぐいと、とにかくイザークの元へ、言葉が通じなかろうと、医師の返答などなかろうとお構いなしに、ノリコは医師を引っ張っていた。
「なんだ?」
「さ……さあ、なんだか来いと言ってるらしいが」
偶然……なのだろうが、ノリコが助けを求める時、必要な助けが訪れる――まるで、何かの意思が働いているかのように。
町長と医師は、困惑しながらもノリコに引かれ、ついて行った。
宿の一室。
イザークは剣を傍らに置き、ベッドの上に気怠そうに座っていた。
「なんだ、どうしたね、あんた。ひどくぐったりして」
ノリコに導かれ部屋に入った医師の第一声はそれだった。
「なるほど、医者を呼びに行ったか」
医師を連れて帰ってきたノリコを見て、宿を飛び出していった理由が分かり、どことなくホッとした様子のイザーク。
体は辛いはずなのに、ベッドの上で横にもならず起きて待っていたのだろう……心配して。
「なる程、きみの様子がおかしいので、この子が呼びに来たのか。わかった、どれ診せてみなさい」
「先生……」
ずかずかと部屋に入りイザークに近寄って行く医師。
その後ろには、心配そうに見守るノリコと、町長が控えている。
「熱は。おお、これは相当高いではないか、いつからだ、症状は?」
医師はイザークにお構いなしに、ベッドに片膝を乗せ、その額に手を当て、矢継ぎ早に訊いてくる。
「脈は……」
そう言ってイザークの腕を取った時、
「先生、大丈夫だ」
そうイザークは返した。
「時々……おれはこうなるんだ」
どうと言うことはない……そう言わんばかりに医師を見る。
「一年分の疲労を寄せ集めたような状態が、突然やってくる。昔からのことだ」
医師は、イザークの言葉から思い当たる症状を、その知識や経験から見つけ出そうとするかのように、耳を傾けている。
だが……
「…………そんな病は、聞いたこともないぞ…………」
それが、医師の診立てだった。
「そうだ、だから診察の必要はない」
イザークは医師の手から、静かに自分の腕を取り戻していた。
「薬も何もきかん。黙って通り過ぎるのを待つだけだ。ずっとそうしてきた」
二人の会話の内容が分からず、ノリコはずっと不安そうで心配そうな瞳を、イザークに向けている。
「それが、おれの持病なんだ」
冷たく、澄んだ瞳で、イザークは医師の診療を静かに拒んだ。
「なんだ、あんた病持ちか!」
それまで黙っていた町長が、その風貌通りの大声でいきなり、そう言って来た。
その町長の横で、不安と心配からくる緊張で大人しく、医師とイザークのやり取りを見ていたノリコが、体をビクつかせる。
「町長! またあんたは、そういうことをずけずけと」
「町長?」
医師が一緒に入って来た男性をそう呼んだことで、イザークは初めて、この派手な服を身に纏った初老の男性が、カルコの町の町長だと知る。
「そうだ。この先生から聞いて、あんたに盗賊退治を依頼するつもりで来た」
「う……」
床に倒れ込んだままのイザークの、その黒髪までもが、彼の体の調子の悪さを表すかのように、重そうに、その身に纏わりついている。
「く」
苦しそうな声音と共に、それでも何とか、イザークは床から体を起こした。
――今、何て言ったんだろう。すごく恐い顔して怒鳴った……
彼と共に過ごした日数は、今日を入れても僅かに三日。
だが、これまでにイザークが自分に対して怒鳴ったり、恐い顔を見せた事など、一度もない。
あれだけの迷惑を掛けているのに――
――あたし、何か悪いことしたんだろうか、ど……どうしよう……
よろめきながら、イザークは壁を支えに立ち上がる。
何をどうしてよいか分からず、ただ不安で、怖くて、ノリコは怒鳴られ固まった状態のまま、彼を見守るしかなかった。
荒い息で、苦しげな表情を見せ、壁に寄り掛かり、辛うじて立っている状態のイザーク。
その眼に、不安で、怯えて、それでいて心配そうに、体を竦ませて自分を見詰めるノリコが映る。
イザークの表情が緩んだ。
「…………すまん」
恐らく、己の、彼女に対する行動を恥じ、責めているのだろう――悪い事をしたと。
このような状態になったのは、彼女のせいではないのだから。
ノリコから顔を背け、イザークは謝っていた。
≪あの……≫
ベッドへとなんとか移動し、ドサッ……と、腰を下ろす。
「大丈夫だ」
ノリコの声掛けに、端的にそう返すイザーク。
≪…………≫
自分が頼りにされていない事など分かっている。
ずっと、自分がイザークを頼りにしてきたのだから。
だからと言って、このまま、放っておいて良いとは思えない。
何ができるだろう……いや、何かしなくてはいけない――自分の体が、少し震えているのが分かる。
≪あ……あたし、お医者さん呼んでくるっ!≫
ノリコは、洞窟の中でイザークについて行くと言った時と同じように、両手で小さく拳を握り、彼を真っ直ぐに見詰めて、そう言っていた。
彼女が何か言っているのに反応して、イザークは顔を向けた。
何を――とでも言うように。
≪お医者さん、昨日のほらっ! こんなひげはやして、こんなはえぎわして、恰幅のいい、あそこ行ってくるっ!≫
そのイザークに、ノリコは一所懸命、身振り手振りを加えて、言いたい事を伝えようとしている。
≪待っててね!!≫
それが、イザークに伝わったのかどうかを確認することなく、ノリコはドアを勢いよく開けると、部屋を飛び出していった。
「…………」
何かを懸命に伝えようとしていたのは、その表情やあの身振り手振りを見れば分かる。
今の状態では、言うだけ言って行ってしまった彼女を、ただ見送るしか出来ない。
一人で行動するノリコに、一抹の不安を感じながらも。
――あんなイザーク、初めて見た……
――とても辛そうで……きっとただ事じゃないわ
ノリコは宿を飛び出て、昨日立ち寄ったあの医者の家を捜し始めた。
――ああ、昨日顔色が悪いと思ったのは、気のせいじゃなかったんだ
――え……えーと、これからどっち行くんだっけ、あの時、暗かったから……
飛び出て来たまでは良かったものの、医者の家までの道のりを、碌に覚えていなかったことに気づく。
夜に見る町並みと、昼の景色とでは、確かに雰囲気や印象が違って見える。
少し、迷いそうになっていた時……
「おや」
と、聞き覚えのある声に、ノリコは振り向いていた。
――お医者さんっ!!
「昨日の子だね、丁度良かった。今、町長と一緒にきみ達を捜していて……」
手を軽く上げて、にこやかにそう話しかけてくる医師。
共にいる男性は、『町長』と言われるだけあって、貫録とそれなりの威厳があり、少し派手な服装をしている。
≪お医者さん! お医者さん来て! イザークが!!≫
ノリコは医師の話に耳を傾けることなく、その腕をがしっと掴んでいた。
医師と一緒にいる男性の事など、視界に入ってもいないのだろう――半分、泣きそうになりながら。
≪イザークが変なの、具合が悪そうなの≫
ぐいぐいと、とにかくイザークの元へ、言葉が通じなかろうと、医師の返答などなかろうとお構いなしに、ノリコは医師を引っ張っていた。
「なんだ?」
「さ……さあ、なんだか来いと言ってるらしいが」
偶然……なのだろうが、ノリコが助けを求める時、必要な助けが訪れる――まるで、何かの意思が働いているかのように。
町長と医師は、困惑しながらもノリコに引かれ、ついて行った。
宿の一室。
イザークは剣を傍らに置き、ベッドの上に気怠そうに座っていた。
「なんだ、どうしたね、あんた。ひどくぐったりして」
ノリコに導かれ部屋に入った医師の第一声はそれだった。
「なるほど、医者を呼びに行ったか」
医師を連れて帰ってきたノリコを見て、宿を飛び出していった理由が分かり、どことなくホッとした様子のイザーク。
体は辛いはずなのに、ベッドの上で横にもならず起きて待っていたのだろう……心配して。
「なる程、きみの様子がおかしいので、この子が呼びに来たのか。わかった、どれ診せてみなさい」
「先生……」
ずかずかと部屋に入りイザークに近寄って行く医師。
その後ろには、心配そうに見守るノリコと、町長が控えている。
「熱は。おお、これは相当高いではないか、いつからだ、症状は?」
医師はイザークにお構いなしに、ベッドに片膝を乗せ、その額に手を当て、矢継ぎ早に訊いてくる。
「脈は……」
そう言ってイザークの腕を取った時、
「先生、大丈夫だ」
そうイザークは返した。
「時々……おれはこうなるんだ」
どうと言うことはない……そう言わんばかりに医師を見る。
「一年分の疲労を寄せ集めたような状態が、突然やってくる。昔からのことだ」
医師は、イザークの言葉から思い当たる症状を、その知識や経験から見つけ出そうとするかのように、耳を傾けている。
だが……
「…………そんな病は、聞いたこともないぞ…………」
それが、医師の診立てだった。
「そうだ、だから診察の必要はない」
イザークは医師の手から、静かに自分の腕を取り戻していた。
「薬も何もきかん。黙って通り過ぎるのを待つだけだ。ずっとそうしてきた」
二人の会話の内容が分からず、ノリコはずっと不安そうで心配そうな瞳を、イザークに向けている。
「それが、おれの持病なんだ」
冷たく、澄んだ瞳で、イザークは医師の診療を静かに拒んだ。
「なんだ、あんた病持ちか!」
それまで黙っていた町長が、その風貌通りの大声でいきなり、そう言って来た。
その町長の横で、不安と心配からくる緊張で大人しく、医師とイザークのやり取りを見ていたノリコが、体をビクつかせる。
「町長! またあんたは、そういうことをずけずけと」
「町長?」
医師が一緒に入って来た男性をそう呼んだことで、イザークは初めて、この派手な服を身に纏った初老の男性が、カルコの町の町長だと知る。
「そうだ。この先生から聞いて、あんたに盗賊退治を依頼するつもりで来た」
作品名:彼方から 第一部 第六話 作家名:自分らしく