彼方から 第一部 第十話
第十話
石畳の上に絡みついた鎖を落とし、イザークは少しの間、その腕を見詰めていた。
徐に、口元の血を拭っている。
「イザ……」
ノリコは、呟くように彼の名を半ば口にしていた。
だが、イザークの耳には入っていないようだった。
血を拭い、服の胸元に眼をやる。
あの頭に刺され、血の染みついた胸元を。
――化け物だ
盗賊の一人が口にした言葉が、耳朶に残っている。
イザークは血を拭ったその手を、刺された所に当てていた。
「イザーク……」
黙したまま歩き出す彼に、ノリコが声を掛ける。
≪あ……歩いたりして、大丈夫なの?≫
――胸、あんなに深くさされたのに……
だが、イザークの歩みは止まらない。
≪イザークってば!!≫
ノリコは慌てて立ち上がり、追い駆けた。
彼女を無視するように歩くイザークの歩幅は広く、少し走らなければとても追いつけない。
≪じっとしていた方がいいんじゃないの? あたっ、あたし、道わかんないけど、その辺の人起こして、お医者さん呼んでもらうから≫
どれだけ声を掛けても振り向かないイザークに、ノリコはますます不安になり、心配になり、焦燥が募ってゆく。
≪痛くない? 苦しくない? ねえ、う……動いたりしたら……≫
イザークを追い抜き、彼の前に回り込み、とにかく話し掛ける。
刺される所を見ていた――深く、深く刺さっていた。
イザークだって、声を上げて倒れたはずなのに……
歩いている、動いているのだから大丈夫なのかもしれないが、ちゃんと医者に診てもらわなければ、ノリコは安心などできなかった。
――化け物よ!
――化け物!!
しかし、今のイザークに聞こえているのは、その耳朶を掴んで離さないのは、盗賊に言われた言葉に重なるように聞こえる、遠い昔から言われ続けた言葉。
その言葉を向けた者の姿――
「うる……さい……!!」
込み上げる感情を押し潰すかのように、歯を食いしばり、見えない何かを睨み付けている。
抑えた声音で放たれた言葉は、ノリコをビクつかせるに十分な怒気を含んでいた。
ノリコの怯えた気配を察したのか、荒く、刺々しかったイザークの気が急速に緩んでゆく。
彼女に向けたその瞳にはもう、怒りの色は浮かんでいなかった。
「すまん……あんたには、礼を言わねばならんのに」
月と星が煌めく夜空に、雲が、広がり始めていた。
「おお、これは町のみんな」
イザークたちが泊っていた宿の一室に、盗賊どもの遺体が次から次へと運び込まれ、きれいに寝かされ並べられ、布を掛けられてゆく。
「ご苦労さん、手伝いに来てくれてたのか」
「すげえだろこれ、一人でやっつけたってんだからなァ」
遺体を戸板に乗せ運び込んでくる町の男たちに、町長はそう言って労いの言葉を掛けている。
「外にもゴロゴロいるらしいんだ」
今運ばれているのは、あの部屋の中で、イザークに倒された盗賊どもの遺体だけらしかった。
「あ、町長」
「宿の主人」
その大きな声はやはりよく響くのか、奥から主人が顔を出してくる。
「こんな夜遅く呼び出しちまって、どうも。いや、実はうちのハンが、盗賊達の手引きをしたらしくてね」
どうやら町長は、この騒ぎを聞きつけて、自ら出向いてきたという訳ではないようだ。
遺体を運んでいる町の者も、中には自ら出向いてきた者もいるかもしれないが、恐らく、騒ぎが収まったのを見計らった宿の主人が、近所に呼ばわって手伝ってもらっているのだろう。
「賊どもが消えてから問い質したら襲ってきやがって」
「でも、うちの人って見かけによらず強いんですよ」
「そうとも、一発ぶんなぐったら逃げっちまいやがった」
宿の主人が町長を呼んだのは、恐らくその報告の為、そして、今後の相談をするためであろう。
夫婦の惚気と一緒に。
「今、奴は町の者が捜しに出てんですよ」
「ところで、こいつもまだ生きてんだけど、先生は?」
戸板に乗せられたまま、動くことすら出来ずに呻いているだけの盗賊を運び入れ、町の男たちがそう言ってくる。
「ああ」
「先生? 先生も来ているのか?」
宿の主人が応じていると、町長が驚いて訊き返してくる。
「さっき、当の渡り戦士が胸を真っ赤にして戻ってきたんで、先生にはそっちの方へ行ってもらったんだ」
宿の主人はそう言って、イザークたちが治療のために使っている部屋の方に眼を向けた。
*************
「あの……」
遠慮がちに掛けられた声に、外で盗賊たちの遺体を片づけていた町の者が数人、振り向いた。
「なんだい?」
「夜遅く申し訳ないのだけれど、この町の町長には、どこに行けば会えるのかしら」
手近に居た、応えてくれた男の人に柔らかく物を訊ねているのは、腰に剣を携え、男物の服を着た、緩やかなウェーブを持つ長い黒髪を頭頂部で一纏めにした女性……
その黒髪は月明かりを浴び、艶めいている。
「え、あ……えーと……」
口元を少し緩めた笑みを見せるその女性に、応じた男性は見惚れ、次の言葉が出てこない。
「あの?」
小首を傾げて、再度そう訊ねられ、男性は我に返った。
「あ、ああ、ちょ、町長ね、町長ならここからすぐのとこにある宿にいると思うよ」
と、照れ隠しに頭を掻きながら教えてくれる。
「ありがとう」
微笑み、礼を言いながら、彼女は辺りを見回していた。
「ああ、渡り戦士に退治を依頼していた盗賊どもだよ。なんでも、夜番をしていた男が盗賊どもの仲間だったらしくてなァ、やられる前にやっちまおうって魂胆だったんじゃねぇのかな? 渡り戦士が泊っていた宿に襲撃に来て、見事に返り討ちさァ、町長がいるのはその宿だよ」
彼女の様子に、男性がそう教えてくれる。
「渡り戦士?」
「すげぇだろ? これ全員、一人でやっちまったんだぜ?」
まるで自分の手柄のように、自慢げにそう言ってくる男性。
「なんか、病持ちとかで、調子がすげえ悪かったらしいって、話だったけどなァ」
「そうなの……」
「おーい、話してねぇで、さっさと手伝ってくれよぉ!」
「あー、わりぃわりぃ! じゃ、町長のいる宿はそこの角曲がったとこだから、人がたくさん集まっているからすぐわかるよ」
男性はそう言って、名残惜しげに手を振りながら、手伝いに向かった。
彼女はそれに笑顔で応じた後、辺りに無造作に倒れている盗賊たちの遺体に眼を向けながら、宿の方へ足を向けた。
*************
「こ……この傷は……」
――え?
医師が眼を見張る。
ノリコも、同じように目を見張っていたが……
「もう治りかけている……」
傷の酷さではなく、既に塞がり始めているその傷に、驚いていた。
「以前受けた傷だ」
イザークは傷に手を当てながら、平然と、医師にそう説明する。
血も止まり、治りかけている傷を、尋常ではないその治癒の速さを――馬鹿正直に言うつもりはイザークには無かった。
ノリコは、自分が何と言っているのか分からない。
医師にどんな説明をしようと、それをノリコが正すことはできない。
それに、恐らく彼女は何も言ってはこないだろう。
石畳の上に絡みついた鎖を落とし、イザークは少しの間、その腕を見詰めていた。
徐に、口元の血を拭っている。
「イザ……」
ノリコは、呟くように彼の名を半ば口にしていた。
だが、イザークの耳には入っていないようだった。
血を拭い、服の胸元に眼をやる。
あの頭に刺され、血の染みついた胸元を。
――化け物だ
盗賊の一人が口にした言葉が、耳朶に残っている。
イザークは血を拭ったその手を、刺された所に当てていた。
「イザーク……」
黙したまま歩き出す彼に、ノリコが声を掛ける。
≪あ……歩いたりして、大丈夫なの?≫
――胸、あんなに深くさされたのに……
だが、イザークの歩みは止まらない。
≪イザークってば!!≫
ノリコは慌てて立ち上がり、追い駆けた。
彼女を無視するように歩くイザークの歩幅は広く、少し走らなければとても追いつけない。
≪じっとしていた方がいいんじゃないの? あたっ、あたし、道わかんないけど、その辺の人起こして、お医者さん呼んでもらうから≫
どれだけ声を掛けても振り向かないイザークに、ノリコはますます不安になり、心配になり、焦燥が募ってゆく。
≪痛くない? 苦しくない? ねえ、う……動いたりしたら……≫
イザークを追い抜き、彼の前に回り込み、とにかく話し掛ける。
刺される所を見ていた――深く、深く刺さっていた。
イザークだって、声を上げて倒れたはずなのに……
歩いている、動いているのだから大丈夫なのかもしれないが、ちゃんと医者に診てもらわなければ、ノリコは安心などできなかった。
――化け物よ!
――化け物!!
しかし、今のイザークに聞こえているのは、その耳朶を掴んで離さないのは、盗賊に言われた言葉に重なるように聞こえる、遠い昔から言われ続けた言葉。
その言葉を向けた者の姿――
「うる……さい……!!」
込み上げる感情を押し潰すかのように、歯を食いしばり、見えない何かを睨み付けている。
抑えた声音で放たれた言葉は、ノリコをビクつかせるに十分な怒気を含んでいた。
ノリコの怯えた気配を察したのか、荒く、刺々しかったイザークの気が急速に緩んでゆく。
彼女に向けたその瞳にはもう、怒りの色は浮かんでいなかった。
「すまん……あんたには、礼を言わねばならんのに」
月と星が煌めく夜空に、雲が、広がり始めていた。
「おお、これは町のみんな」
イザークたちが泊っていた宿の一室に、盗賊どもの遺体が次から次へと運び込まれ、きれいに寝かされ並べられ、布を掛けられてゆく。
「ご苦労さん、手伝いに来てくれてたのか」
「すげえだろこれ、一人でやっつけたってんだからなァ」
遺体を戸板に乗せ運び込んでくる町の男たちに、町長はそう言って労いの言葉を掛けている。
「外にもゴロゴロいるらしいんだ」
今運ばれているのは、あの部屋の中で、イザークに倒された盗賊どもの遺体だけらしかった。
「あ、町長」
「宿の主人」
その大きな声はやはりよく響くのか、奥から主人が顔を出してくる。
「こんな夜遅く呼び出しちまって、どうも。いや、実はうちのハンが、盗賊達の手引きをしたらしくてね」
どうやら町長は、この騒ぎを聞きつけて、自ら出向いてきたという訳ではないようだ。
遺体を運んでいる町の者も、中には自ら出向いてきた者もいるかもしれないが、恐らく、騒ぎが収まったのを見計らった宿の主人が、近所に呼ばわって手伝ってもらっているのだろう。
「賊どもが消えてから問い質したら襲ってきやがって」
「でも、うちの人って見かけによらず強いんですよ」
「そうとも、一発ぶんなぐったら逃げっちまいやがった」
宿の主人が町長を呼んだのは、恐らくその報告の為、そして、今後の相談をするためであろう。
夫婦の惚気と一緒に。
「今、奴は町の者が捜しに出てんですよ」
「ところで、こいつもまだ生きてんだけど、先生は?」
戸板に乗せられたまま、動くことすら出来ずに呻いているだけの盗賊を運び入れ、町の男たちがそう言ってくる。
「ああ」
「先生? 先生も来ているのか?」
宿の主人が応じていると、町長が驚いて訊き返してくる。
「さっき、当の渡り戦士が胸を真っ赤にして戻ってきたんで、先生にはそっちの方へ行ってもらったんだ」
宿の主人はそう言って、イザークたちが治療のために使っている部屋の方に眼を向けた。
*************
「あの……」
遠慮がちに掛けられた声に、外で盗賊たちの遺体を片づけていた町の者が数人、振り向いた。
「なんだい?」
「夜遅く申し訳ないのだけれど、この町の町長には、どこに行けば会えるのかしら」
手近に居た、応えてくれた男の人に柔らかく物を訊ねているのは、腰に剣を携え、男物の服を着た、緩やかなウェーブを持つ長い黒髪を頭頂部で一纏めにした女性……
その黒髪は月明かりを浴び、艶めいている。
「え、あ……えーと……」
口元を少し緩めた笑みを見せるその女性に、応じた男性は見惚れ、次の言葉が出てこない。
「あの?」
小首を傾げて、再度そう訊ねられ、男性は我に返った。
「あ、ああ、ちょ、町長ね、町長ならここからすぐのとこにある宿にいると思うよ」
と、照れ隠しに頭を掻きながら教えてくれる。
「ありがとう」
微笑み、礼を言いながら、彼女は辺りを見回していた。
「ああ、渡り戦士に退治を依頼していた盗賊どもだよ。なんでも、夜番をしていた男が盗賊どもの仲間だったらしくてなァ、やられる前にやっちまおうって魂胆だったんじゃねぇのかな? 渡り戦士が泊っていた宿に襲撃に来て、見事に返り討ちさァ、町長がいるのはその宿だよ」
彼女の様子に、男性がそう教えてくれる。
「渡り戦士?」
「すげぇだろ? これ全員、一人でやっちまったんだぜ?」
まるで自分の手柄のように、自慢げにそう言ってくる男性。
「なんか、病持ちとかで、調子がすげえ悪かったらしいって、話だったけどなァ」
「そうなの……」
「おーい、話してねぇで、さっさと手伝ってくれよぉ!」
「あー、わりぃわりぃ! じゃ、町長のいる宿はそこの角曲がったとこだから、人がたくさん集まっているからすぐわかるよ」
男性はそう言って、名残惜しげに手を振りながら、手伝いに向かった。
彼女はそれに笑顔で応じた後、辺りに無造作に倒れている盗賊たちの遺体に眼を向けながら、宿の方へ足を向けた。
*************
「こ……この傷は……」
――え?
医師が眼を見張る。
ノリコも、同じように目を見張っていたが……
「もう治りかけている……」
傷の酷さではなく、既に塞がり始めているその傷に、驚いていた。
「以前受けた傷だ」
イザークは傷に手を当てながら、平然と、医師にそう説明する。
血も止まり、治りかけている傷を、尋常ではないその治癒の速さを――馬鹿正直に言うつもりはイザークには無かった。
ノリコは、自分が何と言っているのか分からない。
医師にどんな説明をしようと、それをノリコが正すことはできない。
それに、恐らく彼女は何も言ってはこないだろう。
作品名:彼方から 第一部 第十話 作家名:自分らしく