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　この傷が、ついさっき、頭に刺されたものだと、それを証明することは誰も……

　――だって……

　思った通り、ノリコは驚いて見ているだけで、何も言ってはこない。
　不思議には思っているだろう。刺されるところを目の当たりにしていたのだから。
　イザークの叫び声も、その血が流れるところも、見ていたのだから……
「だから言っただろ、服にあるのは返り血だと」
　脱いだ服を置いてある椅子に掛け、慣れてしまっているのか、イザークは表情一つ変えずに医師に嘘の説明をしている。
　今、彼女がこの世界の言葉を話すことも理解することも出来ないことに、彼は少しホッとしているのかもしれない。
　もしもノリコが、理解できていたなら、話すことが出来るようになっていたのなら、そんな嘘は通用しなくなるのだから。　
「ああ……いや、この子がいやに騒ぐもんでな」
　医師も治りかけの傷を見せられては、引き下がるしかない。
　治療を必要とする傷や怪我がなければ、医師の出番はない。

　――あれ？

　だが、大人しく見ているだけ……とはいかなかった。
　医師とイザークの会話の内容など分からないノリコには、自分が眼にした事柄が全てなのだから仕方がない。
　いきなりイザークの両の腕を掴むと、その傷を、確かに剣が刺さったその場所を、マジマジと見詰めていた。
「これこれ、ノリコちゃん、女の子がはしたない」
　その様子を見た医師の方が、顔を赤らめて窘めている。
　流石に、傷を診せるためとはいえ、上半身裸になっている男の人に対して、女の子が、やっても良い行為とは言い難いかもしれない。
　だがノリコは、言葉が分からないことも手伝い、イザークの体の傷を、それこそ穴が開くほど見入っている。

　――あの傷が、ふさがっている……

　本当に塞がっているのを見て、ノリコはゆっくりと、イザークを見上げた。
　ふぃっと、イザークは顔を背けてしまう。
　間近で裸を見られていることに対する恥じらいなのか、それとも――
　常人よりも異常に早い傷の治り方に対する、ノリコの反応を見るのが嫌だったのか……

　――じゃ、もう痛くないんだ

　だが……イザークを見るノリコの眼には、何の曇りも見られない。

　――もう、苦しくないんだ

　ただ、ただに、彼の痛みや苦しみを案じていただけ。
　だから、今の彼が大丈夫なのだと分かれば、もう痛くも苦しくもないのだと分かれば、それで――それだけで……

≪よかったァ≫

　そう言って、笑顔になれるのだ。
　彼女にとっては何よりもそれが、大切なことだった。

　彼女のホッとした声音に、その笑顔に、イザークは驚いていた。
　普通の人間は、こんなすぐに傷や怪我は治らない。
　それを見た人の反応を、イザークは嫌というほど見ている。
　こんな……ノリコのように、ホッとしてくれる人など……
　よほど安心したのか、へたへたと、力なくその場に崩れ座り込むノリコを、イザークはただ、見ていた。　
　
　――よかった……

　もう、大丈夫なのだと、その想いが瞳に涙を滲ませている。
「う……」
　滲んだ涙を拭う。
「お？」
　町長がドアを開け、顔を出してきた。
「うーう、うう……」
　もう、止まらなかった。
「ああ～～～ん！　うわあん」
　他人の眼も、自分の年齢も何も関係なく、ノリコは大声で泣いていた。
　押し留められていた感情が堰を切って溢れ出し、彼女はその感情のまま、泣いていた。
「こらこら、何を泣かしとる」
　彼女が泣き始めた所からしか見ていない町長が、イザークを窘めようと声を掛ける。
「ああ町長、彼が泣かしたわけじゃないんだよ」
　一部始終を見ていた医師が、それを止めに入った。
「安心して、気がゆるんだんだろ。彼女としちゃ、朝から心配のしどおしだっただろうし、なにより、盗賊達の真只中で、死闘に巻き込まれてしまったんだから」
　ぺたりと床に座り込みただ泣き続けるノリコを、イザークは黙って、彼女に合わせるように片膝を着いて見守っている。
　そんな二人の様子を見ながら、医師が町長に、そう説明していた。

「あの……あなたが町長さんかしら？」
「あ？　ああ、わたしがそうだが？」
　ノリコの泣き声が治まらない中、不意に掛けられた声に、二人は同時に振り向き、町長がそう答えていた。
「夜遅くにご免なさいね、ちょっと、話があるのだけれど、いいかしら」
　そう言って、口元を緩めただけの笑みを見せているのは、長い黒髪のあの女性。
　その笑みの美しさに、医師が思わず無言で、顔を赤らめている。
「あんたは一体……？」
　町長も医師と同じく顔を赤らめてはいるが、上に立つ者としての自覚と責任感からか、相手のことを訊ねる余裕は、とりあえずあった。
「ああ、これは申し遅れました、あたし、アイビスクの臣官長から依頼を受けて動いております渡り戦士で、名を、エイジュ……エイジュール・ド・ラクエールと申します」
　町長の問いに、エイジュと名乗ったその女性は、姿勢を正し、敬意を表するように丁寧に自己紹介を始めた。
　お辞儀をし、顔を上げた時に、二人に笑顔を向けるのを忘れない。
　彼女の言葉遣いに、町長の方が面喰っている。
　町長という立場にはいるが、こんな丁寧な言葉遣いで自己紹介など、受けた覚えがなかった。
　ふと、彼女が何かに気づいたように、町長たちの後ろに視線を向ける。
　ノリコの泣き声が、いつの間にか止んでいた。
「あ」
「どうした！？」
　こてんと、片膝を着いて見守ってくれていたイザークに、その身を預けるように倒れてしまったノリコ。
「寝ている……」
　困惑気味の表情で彼女の寝息を聞きながら、イザークは片腕でその体を支えていた。
　無防備に、安心しきった様子で、会って間もない男性に身体を預けて寝てしまっているノリコ。
　その無垢な様に、町長と医師は呆気に取られ、無言で見つめていた。
「確か、前にもこんなことがあったな……」
　樹海の地下で……
　あの時も、ノリコは一頻り泣いた後、こてんと、今のように眠ってしまっていた。
　自分の肩を枕に、本当に無防備に、何の躊躇いもなく寝入っているノリコ。
　そんな彼女を見るイザークは今、何を想い、感じているのだろうか。
　ノリコを起こさぬよう、彼はそっと、靴を脱がしてゆく。
　ふわり――と抱き上げ、そのままベッドへと運び、そっと、寝かしてやる。
　眼を覚ますことなく、されるがままのノリコを見るイザークの眼は、どこか慈しむような――そんな印象を、町長は受けていた。

「襲撃してきたっていう盗賊達を、一人で殺った渡り戦士って、あなたのことかしら？」
　三人で申し合わせたかのように無言でイザークの所作を見ていた中、ノリコを寝かし終えた彼に、エイジュがそう、訊ねていた。
「そうだ」
　イザークは彼女を一瞥し、特に表情を変えることもなくそう答える。
「そう、強いのね……」
　どことなく、彼女の言い方に棘を感じる。
　その会話に、何気なくエイジュを見た町長、彼女の腰にある剣を見て、
「あんたも渡り戦士なのか」
　と、今更のように、いかにも女だてらにと咎めるような言い方をしてきた。
「しかも、男物の服など着て！」