彼方から 第一部 最終話
最終話
僅か、三日間……
ノリコがこの世界に飛ばされてから、まだ、それだけしか経っていない。
初めて会ったこの世界の人間であるイザークに、ノリコはヒヨコのように『すり込み』をされてしまったのかも知れない。
姿が見えなくなった途端、心細くなって、足が地に着かないような、そんな感覚に襲われる。
四日目の朝、イザークの姿が見えず泣きそうな気分で、ノリコはおたおたと、階下に降りてきた。
この三日間で初めての出来事だった。
何も言われずに、一人にされたのは……
そんな彼女の前に、
「ほら」
そう言って、宿の主人が仮眠室に置いてあったイザークの荷物を持ってきてくれる。
――イザークの荷物だ
――ここにあるって事は
――また、戻って来るって事なのよね
彼の荷物の感触を確かめるように、ノリコはバッと床に座り込み、掴んでいる。
――よかった
――あたし、見捨てられたわけじゃなかったんだ
ホッとして、ノリコはやっと、自分を囲んで見守ってくれている町長や宿の夫婦、そして医師を、笑顔で見上げた。
「おお、やっと安心したようだぞ」
「なんせ言葉が分からんからなァ」
「いくら説明しても、不安そうな顔してるから」
ノリコを囲んでいた面々にも、同じように笑顔が戻っていた。
≪…………≫
「じゃ、ま、朝メシでも食うか?」
町長が笑顔で、彼女の背中を叩きながらそう言ってくれる。
≪有難う……≫
言葉が伝わらなくても、その心遣いはきちんと伝わってくる。
自分を気遣ってくれる彼らの心が伝わってきたのが嬉しくて、ホッとして、ノリコは笑顔で感謝の言葉を口にしていた。
「おはよう」
聞き慣れない声に、ノリコはイザークの荷物を抱えたまま、声のした方に顔を向けた。
「おお、あんたか、おはよう」
同じく声に振り向いた町長も、他の面々も、その声の主に同じように返している。
「どうしたの?」
食堂の一角に、四人も集まっていることに、怪訝な表情を見せるエイジュ。
町長の後ろから、顔を覗かせて見る。
「ああ、昨日のお嬢さんね」
そう言って微笑みながら、エイジュはノリコにも『おはよう』と声を掛けた。
ノリコにとっては、初めて会う人だった。
少し小首を傾げて、もう一度『おはよう』と言ってくれるその仕草がなんだが可愛らしく思えてしまい、ノリコは、同じ女性ながら、顔を赤らめてしまっていた。
――そう言えば、他の人とも、同じ言葉を交わしてたな……
彼女をじっと見ながら、これは多分、朝の挨拶なのでは……?
そう思ったノリコは、
「お……ひゃおう」
と、不明瞭ながら、言われた言葉を口にした。
「お! そうだ、おはようだ、お・は・よ・う」
ノリコが、言葉を覚えようとしていると、そう気づいた町長が嬉しそうに、同じ言葉をゆっくりと発音してくれる。
ノリコも嬉しそうに、何度か繰り返し、やがて……
「お、ひゃよう――おはよ、う」
と、ハッキリ発音できるようになった。
見守ってくれていた面々から、『おおーっ』と歓声が上がる。
「なかなか上手だな」
医師が感心したように褒めてくれた。
何を言われているのか分からないなりにも、皆の様子から、喜んでもらえているのは伝わってくる。
ノリコもその反応が嬉しくて、始終、笑顔だった。
「えらいねぇ、見知らぬ土地に来て、散々な目に遭って、それでもめげずに言葉を覚えようとするなんてねぇ」
宿の女将が、食事の用意をしてくれながら、まるでノリコの母親にでもなったかのように、眼を細めて彼女を見ている。
「さ、二人とも、食事をどうぞ」
「ありがとう」
テーブルの上に並べられた、二人分の温かい食事。
エイジュは女将に笑顔でそう応えると、序のようにノリコの肩に手を掛けた。
用意された食事を指差し、食べる真似をして見せる。
「分かる? 食事よ、しょ・く・じ」
言葉を教えてくれているのだと、その言い方で分かる。
ノリコはイザークの荷物を持って立ち上がり、たどたどしい発音で『しょくじ』と、何度も発音しながら、エイジュと一緒にテーブルに着いた。
「いただきます」
ゆっくりと、エイジュはノリコを見ながらそう言って、食べ始める。
「い――いあだき、ま……いあ、いた、だきす……」
何度も繰り返して、一生懸命、言葉を覚えようとしているノリコ。
そうしながら、食事を進めるノリコを見て、エイジュはフッ……と笑みを零していた。
「そう言えばエイジュさん、何か言い伝えとか昔話とか? そう言う話を集めてるって、町長から聞いたんですけど」
食事を終えたのを見計らって、女将がそう、エイジュに話し掛けて来た。
「えぇ」
「町外れに一人で住んでいるお年寄りがね、近所の子供たちを集めて、よくお伽噺を聞かせているんだけど、そこを訪ねてみたらどうでしょうね」
「そうなの? ありがとう、助かるわ」
空になった食器を片づけながら交わされる二人の会話を、ノリコがじっとヒアリングしては、ブツブツと口の中で反芻している。
「ごちそうさま、おいしかったわ」
そう言って立ち上がるエイジュ。
「ご、ごつ――ごうそーさ、ま」
「ご・ち・そ・う・さ・ま……よ」
聞きかじった言葉を、すぐに反芻するノリコ。
エイジュも、彼女の努力に応えるように、一音一音、区切って発音してやっている。
「ご……ち、そう――さ、ま」
自分で納得できる発音が出来たと、そう思ったのか、ノリコはエイジュに満面の笑みを向けて来た。
彼女も釣られて微笑み返し、無意識に、彼女の頭を撫でていた。
――ッ!!
不意に、胸に痛みが奔り、エイジュは思わず胸に手を当て、一瞬、顔を歪ませていた。
「ん? どうした?」
彼女の様子に気づいた医師が、声を掛け、近づいてくる。
医師の言葉に、町長や女将、宿の主人もエイジュに視線を向けた。
間近で見ていたノリコが一番、心配そうな目を向けてくる。
「あぁ、大丈夫、大丈夫よ、何でもないから……」
エイジュはそう言いながら皆に笑顔を見せ、手で制してくる。
「ほら」
そう言って、どこにあったのか、何か小さなものを見せてくる。
「これがいつの間にか、服に刺さっていたみたいで……」
エイジュの掌に乗ったそれは、草の棘のように見えた。
いつまでも心配そうな表情を見せるノリコにも、彼女はその棘を見せ、服に刺さっていたとジェスチャーをして見せる。
ホッとした様子を見せるノリコを見て、エイジュもホッとした
。
――――余計な事は出来ない、と。
「女将さん、その御老人の家、教えていただけるかしら」
早くその話題から離れるかのように、エイジュは女将に声を掛けていた。
「ああ、ちょっと待ってね」
食器を洗い場に片し、一枚の書紙を持って台所から出てくる女将。
「これで分かるかしらね」
書紙を受け取り、暫し眺め、『大丈夫よ、ありがとう』と笑みを返すエイジュ。
「あ……りか――?」
自分が食べた食器を持ってきながら、ノリコが訊ねるように発音してくる。
彼女が皆との会話の中で何度か口にしている言葉が、気になっていたのだろう。
「あ・り・が・と・う、よ」
僅か、三日間……
ノリコがこの世界に飛ばされてから、まだ、それだけしか経っていない。
初めて会ったこの世界の人間であるイザークに、ノリコはヒヨコのように『すり込み』をされてしまったのかも知れない。
姿が見えなくなった途端、心細くなって、足が地に着かないような、そんな感覚に襲われる。
四日目の朝、イザークの姿が見えず泣きそうな気分で、ノリコはおたおたと、階下に降りてきた。
この三日間で初めての出来事だった。
何も言われずに、一人にされたのは……
そんな彼女の前に、
「ほら」
そう言って、宿の主人が仮眠室に置いてあったイザークの荷物を持ってきてくれる。
――イザークの荷物だ
――ここにあるって事は
――また、戻って来るって事なのよね
彼の荷物の感触を確かめるように、ノリコはバッと床に座り込み、掴んでいる。
――よかった
――あたし、見捨てられたわけじゃなかったんだ
ホッとして、ノリコはやっと、自分を囲んで見守ってくれている町長や宿の夫婦、そして医師を、笑顔で見上げた。
「おお、やっと安心したようだぞ」
「なんせ言葉が分からんからなァ」
「いくら説明しても、不安そうな顔してるから」
ノリコを囲んでいた面々にも、同じように笑顔が戻っていた。
≪…………≫
「じゃ、ま、朝メシでも食うか?」
町長が笑顔で、彼女の背中を叩きながらそう言ってくれる。
≪有難う……≫
言葉が伝わらなくても、その心遣いはきちんと伝わってくる。
自分を気遣ってくれる彼らの心が伝わってきたのが嬉しくて、ホッとして、ノリコは笑顔で感謝の言葉を口にしていた。
「おはよう」
聞き慣れない声に、ノリコはイザークの荷物を抱えたまま、声のした方に顔を向けた。
「おお、あんたか、おはよう」
同じく声に振り向いた町長も、他の面々も、その声の主に同じように返している。
「どうしたの?」
食堂の一角に、四人も集まっていることに、怪訝な表情を見せるエイジュ。
町長の後ろから、顔を覗かせて見る。
「ああ、昨日のお嬢さんね」
そう言って微笑みながら、エイジュはノリコにも『おはよう』と声を掛けた。
ノリコにとっては、初めて会う人だった。
少し小首を傾げて、もう一度『おはよう』と言ってくれるその仕草がなんだが可愛らしく思えてしまい、ノリコは、同じ女性ながら、顔を赤らめてしまっていた。
――そう言えば、他の人とも、同じ言葉を交わしてたな……
彼女をじっと見ながら、これは多分、朝の挨拶なのでは……?
そう思ったノリコは、
「お……ひゃおう」
と、不明瞭ながら、言われた言葉を口にした。
「お! そうだ、おはようだ、お・は・よ・う」
ノリコが、言葉を覚えようとしていると、そう気づいた町長が嬉しそうに、同じ言葉をゆっくりと発音してくれる。
ノリコも嬉しそうに、何度か繰り返し、やがて……
「お、ひゃよう――おはよ、う」
と、ハッキリ発音できるようになった。
見守ってくれていた面々から、『おおーっ』と歓声が上がる。
「なかなか上手だな」
医師が感心したように褒めてくれた。
何を言われているのか分からないなりにも、皆の様子から、喜んでもらえているのは伝わってくる。
ノリコもその反応が嬉しくて、始終、笑顔だった。
「えらいねぇ、見知らぬ土地に来て、散々な目に遭って、それでもめげずに言葉を覚えようとするなんてねぇ」
宿の女将が、食事の用意をしてくれながら、まるでノリコの母親にでもなったかのように、眼を細めて彼女を見ている。
「さ、二人とも、食事をどうぞ」
「ありがとう」
テーブルの上に並べられた、二人分の温かい食事。
エイジュは女将に笑顔でそう応えると、序のようにノリコの肩に手を掛けた。
用意された食事を指差し、食べる真似をして見せる。
「分かる? 食事よ、しょ・く・じ」
言葉を教えてくれているのだと、その言い方で分かる。
ノリコはイザークの荷物を持って立ち上がり、たどたどしい発音で『しょくじ』と、何度も発音しながら、エイジュと一緒にテーブルに着いた。
「いただきます」
ゆっくりと、エイジュはノリコを見ながらそう言って、食べ始める。
「い――いあだき、ま……いあ、いた、だきす……」
何度も繰り返して、一生懸命、言葉を覚えようとしているノリコ。
そうしながら、食事を進めるノリコを見て、エイジュはフッ……と笑みを零していた。
「そう言えばエイジュさん、何か言い伝えとか昔話とか? そう言う話を集めてるって、町長から聞いたんですけど」
食事を終えたのを見計らって、女将がそう、エイジュに話し掛けて来た。
「えぇ」
「町外れに一人で住んでいるお年寄りがね、近所の子供たちを集めて、よくお伽噺を聞かせているんだけど、そこを訪ねてみたらどうでしょうね」
「そうなの? ありがとう、助かるわ」
空になった食器を片づけながら交わされる二人の会話を、ノリコがじっとヒアリングしては、ブツブツと口の中で反芻している。
「ごちそうさま、おいしかったわ」
そう言って立ち上がるエイジュ。
「ご、ごつ――ごうそーさ、ま」
「ご・ち・そ・う・さ・ま……よ」
聞きかじった言葉を、すぐに反芻するノリコ。
エイジュも、彼女の努力に応えるように、一音一音、区切って発音してやっている。
「ご……ち、そう――さ、ま」
自分で納得できる発音が出来たと、そう思ったのか、ノリコはエイジュに満面の笑みを向けて来た。
彼女も釣られて微笑み返し、無意識に、彼女の頭を撫でていた。
――ッ!!
不意に、胸に痛みが奔り、エイジュは思わず胸に手を当て、一瞬、顔を歪ませていた。
「ん? どうした?」
彼女の様子に気づいた医師が、声を掛け、近づいてくる。
医師の言葉に、町長や女将、宿の主人もエイジュに視線を向けた。
間近で見ていたノリコが一番、心配そうな目を向けてくる。
「あぁ、大丈夫、大丈夫よ、何でもないから……」
エイジュはそう言いながら皆に笑顔を見せ、手で制してくる。
「ほら」
そう言って、どこにあったのか、何か小さなものを見せてくる。
「これがいつの間にか、服に刺さっていたみたいで……」
エイジュの掌に乗ったそれは、草の棘のように見えた。
いつまでも心配そうな表情を見せるノリコにも、彼女はその棘を見せ、服に刺さっていたとジェスチャーをして見せる。
ホッとした様子を見せるノリコを見て、エイジュもホッとした
。
――――余計な事は出来ない、と。
「女将さん、その御老人の家、教えていただけるかしら」
早くその話題から離れるかのように、エイジュは女将に声を掛けていた。
「ああ、ちょっと待ってね」
食器を洗い場に片し、一枚の書紙を持って台所から出てくる女将。
「これで分かるかしらね」
書紙を受け取り、暫し眺め、『大丈夫よ、ありがとう』と笑みを返すエイジュ。
「あ……りか――?」
自分が食べた食器を持ってきながら、ノリコが訊ねるように発音してくる。
彼女が皆との会話の中で何度か口にしている言葉が、気になっていたのだろう。
「あ・り・が・と・う、よ」
作品名:彼方から 第一部 最終話 作家名:自分らしく