彼方から 第一部 最終話
さっきと同じようにゆっくりと発音して見せながら、エイジュは女将から書紙を渡された時のジェスチャーをして見せ、頭を下げてもう一度、『ありがとう』と繰り返す。
そのジェスチャーで、ノリコは今教えてもらっている言葉の意味を理解した。
「あり、が、とう!」
それは、感謝を述べる言葉なのだと。
エイジュもにっこりとしながら頷き返すと、そのまま女将の方に向き直り、
「もしかしたら、数日、お世話になるかもしれないのだけれど」
そう訊ねていた。
「あぁ、今日の部屋で良ければ、取っておきますよ」
笑顔で快諾してくれた女将に、それじゃ、と手を振り、エイジュはもう一度もらった書紙を見返しながら、宿の玄関へと足を向けた。
「あ……」
思わず、そう声を漏らしていたのはノリコだった。
少し寂しげにエイジュを見ていたが、自分に向けられた皆の視線に気づくと、思わず赤くなり、俯いてゆく。
その仕草に、思わず笑みが零れた。
「大丈夫、大丈夫よ」
エイジュはそう言いながらノリコの肩に手を置くと、
「彼が、イザークが帰ってくるまで、ここで待っていれば大丈夫よ、この宿の人たちはいい人たちだから」
女将や宿の主人たちを見て、それからノリコに微笑みかけた。
町長や医師たちも、エイジュの言葉を継ぐように、それぞれが大丈夫だと頷いて見せながら、ノリコに笑顔を向ける。
皆の笑顔と、イザークの名が出たことで少し安心したのか、ノリコも微笑み返すと、『あり、がと』と、覚えたての言葉でお礼を言って見せた。
たどたどしいながらも、ちゃんと場面にあった、意味の通じる言葉を使おうとしているノリコに、皆も笑顔になってゆく。
「それじゃあね」
エイジュは今度こそ、そう言って宿を出ようとした。
その、彼女の袖を、ノリコが不意に掴んでくる。
怪訝そうに掴まれた袖を見て、彼女に視線を向ける。
「どうしたの?」
≪…………≫
何か、不思議な感じがして、ノリコはじっと、彼女を見つめていた。
このまま、別れてしまってはいけないような、そんな気がする。
確かに初めて会う人なのに、どことなく、以前から知っているような……そんな感じがして仕方がなかった。
「ノリコ……ノリコ・タチキ、ノリコ。ノリコ」
やがて、そっと掴んでいた袖を離すと、イザークにして見せたように、彼女は自分を指差し名前を連呼した後、エイジュを指差した。
「ああ……」
名前を訊ねられている――それが何故か嬉しく、エイジュは無意識に破顔していた。
「エイジュ――エイジュール・ド・ラクエール。エイジュよ、エ・イ・ジュ」
彼女も同じように自分の名前を何度も、そして聞き取りやすいようにゆっくり、ハッキリと発音してやる。
「エ――エイ、ジュ!」
「そうよ」
互いに笑顔を見せ合い、エイジュは今度こそ、『じゃあね』と言って宿を出た。
宿の周りはまだ人が多く、騒然としている。
棺も運ばれてきていて、既に遺体も収められているようだ。
その様子を遠目に見ながら、もう一度書紙を確認しようとして、ふと、気配に気づいた。
振り向くと、宿のドアからちょこんと、ノリコが顔を出してこちらを見ている。
その仕草が可愛らしく、エイジュは苦笑しながら手を振っていた。
気づいてもらえたのが嬉しかったのか、ノリコも笑顔で手を振りかえしてくる。
エイジュが建物の角を曲がって、その姿が見えなくなるで、ノリコはずっと、見送っていた。
宿を出て暫く歩き、人気のない道に出る。
町の外れへと向かい、エイジュは更に建物の陰へと、更に人目につかない場所へと入ってゆく。
すぐには、誰も来ないという安心を得たのか、エイジュはその場に蹲った。
息を荒げ、胸を抑えている。
――あちら側からの、忠告ね……
彼女の脳裏に、嬉しそうに微笑むノリコの顔が浮かぶ。
頭を撫でた時の、感触が蘇ってくる。
――出過ぎてはいけないと……いう事ね
――今のあたしの役割は、あくまでも、二人を見て、護る者……だと
痛みが治まってきたのか、エイジュは大きく息を吐くと、建物の壁に背中を預けた。
青く澄んだ空を見上げた後、各町へと通じている街道へと眼を落す。
――たしか、新手が加わったと言っていたわね
医師が診ていた遺体は、死に方が異常だとも言っていた事を思い出す。
瞼を閉じ、気配を探る。
イザークと頭が戦ったあの森の奥、山の方に、移動する彼の気配がある。
盗賊の根城に向かっている途中なのだろう、その行く先に、微かだが、別の能力者の気配もしている。
――見ておいた方が、いいかもしれないわね
徐に立ち上がると、辺りに人の気配がないことを確かめ、エイジュは家々の屋根を飛び越し、イザークの気配を辿り始めた。
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――よしっ!
寝かされていた部屋に戻り、ノリコは勢いよくカーテンを開けた。
――うろたえないで、おとなしく部屋で彼を待っていよう
気持ちの良い青空が広がっているのが見える窓を開き、椅子を傍まで持ってくる。
≪よいしょ≫
椅子に腰掛け、膝の上にイザークの荷物を抱え込んだ。
――それが、彼らの心遣い対する、感謝のしるしだと思うし……
窓の外の景色を眺めながら、自分に笑顔を向けてくれた人たちのことを思い返す。
言葉も分からない、会ったばかりの娘に対して、精一杯の気遣いを見せてくれた……
それが伝わってきたことが嬉しかった。
人に対する思いやりは、どこの世界も変わらない――どこの世界でも通じるのだ、と。
*************
荒れた岩肌が目立つ山の中。
岩の隙間に張り付くように生えている低木ばかりが目立つ場所から、やがて、曲がりくねった枝を持つ、大きな木が生えている場所へと、少し開けた所へと、イザークは進んできた。
「や……野郎、来やがったぜ」
軽やかな足取りで岩肌を飛び越えてくるイザークを視界に捉え、抑えた声音で呟く。
声音に含まれる震えは、恐れか、それとも武者震いか。
「なに……待ち伏せなら大丈夫だ」
「ワナを使えば勝てる」
盗賊の残党を狩りに来た彼を、誰かが狙っているようだ。
その気配に気づき、イザークは立ち止まると視線を送った。
刹那、彼の頭上から投げ落とされてきたのは、端に石の重しをつけた網――
大きく広がり、イザークの逃げ場を失くし、その行動の自由を奪う為の網だった。
狙い違わず、網はイザークの体をすっぽりと包みこみ、その自由を奪った――
「かかったぜっ!」
「やったあ! 剣ですらたやすく切れねえ、鋼蔦網だぜっ!!」
様子を伺っていた盗賊の残党が、隠れていた茂みの陰から飛び出してくる。
「網をつかって、引き倒せっ!」
「動きを封じりゃ、こっちのもんだっ!!」
そう思っていたのは、残党だけだった。
彼に――イザークに、網に掛かった動揺など、微塵もなかった。
体の自由を奪っている網を両手でグッと掴むと、バリッ――と、残党どもを見据えながら、その腕の力のみで一気に引き裂いていた。
作品名:彼方から 第一部 最終話 作家名:自分らしく