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金陵奇譚 ─双の翔(つばさ)─

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「景琰。」
早朝の養居殿の寝房、陽は昇ったが、まだ人々が動き出す時間ではない。
皇帝は、起き上がりはしたものの、まだ体は目覚めぬ様だった。暫し寝台に座ったままでいた。
幾らもせぬうち、名を呼ぶ声がしたのだ『景琰』と。もはや今、景琰と呼ぶ存在は誰もいなかった。
、、、、この世の人の中では。

驚いて、声の主の方を振り向くと、そこに梅長蘇が立っていた。
「小殊?!。」
皇帝は驚いて、食い入るように、梅長蘇の顔を見ていた。
梅長蘇は真顔で皇帝に言った。些か、急いでいる様でもあった。
「景琰、、今すぐに侍医を召せ。」
「?、、何故だ?。風邪をひいて数日具合が悪かったが、もう既に治ったのだ。何故、呼ばねばならぬ?。」
「いいから、今すぐにだ。当直の太医が、今、皇宮に居ない。残った侍医の李諦という者を召すのだ。具合が悪いと言って、、。」
「、、???。」
本来、太医は皇宮に居るべきだろうが、、、。
今、蒙摯の老いた母親の具合が、思わしくない。連絡が来れば、何時でも太医を、遣わすことにしていたのだ。太医は、夜半に呼ばれて、そのまま朝まで、蒙家で明かしていた。幾らか時間は要するだろうが、代わりの太医も呼べば来るはずであったが、何故か李諦という者を呼べと言う。
梅長蘇が何故、皇帝にそうさせるのかは理解できないが、こうして言うからには、確たる理由があるのだ。

「、、誰か、、居るか?。」
皇帝は、部屋の外に控えている太監を呼び、李諦を召す事に決めた。


暫くすると、太監が侍医を連れてくる。
驚く事に、梅長蘇が言った通り、李諦という医師は確かに宮廷に居た。
恭しく李諦が、皇帝の側に来て脈を診た。
じっと脈診し、驚いた顔で皇帝を見上げる。
李諦は跪いて、恭しく皇帝に告げる。
「申し上げます。陛下は脾臓が弱っておいでです。」
「???。」
皇帝も、この脈診の結果に驚いていた。
「風邪は良くなったが、些か気怠(けだ)るかったのだ。弱った部分があったのか、、、。」
「無理をなさってはいけません。今日から数日は、薬湯をお召になり、お休みになれば、回復なさるでしょう。」
「今日、数日もか?!。」
「お休みにならねば、症状は長引きましょう。悪くなるやも、、。
臓の腑の損傷は、軽視してはなりません。僅かな損傷でも、長引けばご健康を害します。」
皇帝の側には梅長蘇がいた。
心配気に皇帝を見ていた。
「そうだ、景琰。脈診においては、この者が太医を凌いでいる。僅かな脈の乱れも見逃さぬ。たまたま機会があったので、お前にこの者に診てもらうよう、言ったのだ。
まだ、皇太子も幼いのだ。お前は健康でいなければ。少しの養生で気力も健康も続くのだ。」
「大した事はないのに、、。戦場では風邪如き、動いていれば、すぐに治ったのだ。弱くなったものだな、、。」
「小さな症状と甘く見ては酷い目に遭うぞ。景琰が健康を害すれば、この者達が責任を追求させるのだ。」
「、、、、まったく、、面倒だな。」
「そう言わずに、この者に任せよ。一度、体調を崩すと、なかなか元には戻らぬ。如何に屈強な皇帝でも、寄る年波には勝てぬのだ。」
「失礼だな!、私はまだ若く、調子も変わらぬ。年寄り扱いするな。適度に体も鍛えている。」

「ははーーーー、、、。」
急に李諦が平伏する。
「?、何だ?、どうした?。」
侍医に急に畏(かしこ)まられ、皇帝は驚いた。
梅長蘇の声は、侍医には聞こえない。
皇帝が文句を言っているのだと思い、李諦は、どうして良いか分からず、平伏したのだ。
「、、ぁっ、、。」
漸く皇帝も気が付く。
「クックックックッ、、、、。」
皇帝が梅長蘇を睨むが、長蘇はそっぽを向いて笑いを噛み殺していた。

侍医は恐ろしくて、頭を上げられぬようだ。無理もない、皇帝の脈など初めて診たのだ。、、しかも怒られた。
「、、畏れながら、申し上げます。」
怖々と侍医が続けた。恐縮しているが、それでも侍医の言葉に力はあった。
「陛下はお疲れのご様子でございす。薬湯だけでは体に負担がかかりすぎるでしょう。
夜、遅くまで政務に当たられるのを、お止めになるか、せめて今日一日だけでも、お休み下さい。
今、病の兆しは、目に見えぬでしょうが、月日が経つうちに蓄積されて、体に現れた時には、回復が難しくなっている事がございます。」
李諦の言葉を聞き、長蘇がそれを畳み掛けるように皇帝に言う。
「そうだそうだ、医者の、言う通りだ。じーさんになったら、中々、治らんぞ。
景琰なんか偏屈だから、皆にそっぽ向かれて捨てられるぞ。」
いくら梅長蘇でも、この言い種は、聞き捨てならない。
「何っ!!、お前は!、いい加減にしろよ!、私を怒らせたいのか!!。」

「ははーーーー、、、、、。お許しくださいお許しくださいお許しください。」
李諦が、皇帝の語気に、更に縮み上がる。
「ぁ、、ぃゃ、、そなたの事では、、。」
「ぷ──────っっっ、、クックックックッ、、、。」
「、、、何でこうなる、、。」

慄きながらも、側にいた李諦が、寝台から、転がるように下がって平伏した。
「、、畏れながら、、畏れながら、、陛下の脈に疲労が現れておりまする。どうかどうか、、、お休みくださいます様、、。」
梅長蘇は李諦のその様子を見て、同情したように皇帝に言った。
「可哀想にこの侍医、、景琰の怒鳴り声に恐れをなして、腰が立たないぞ。それだけの覚悟で言ってるんだ、聞いといた方が良いと思わないか?。怖い思いだけして、怒鳴られ損だろ、、。せめて聞いてやれよ。一日くらい何とでもなるだろ。偏屈なお前に、誰も進言しなくなるぞ。」
「だがな、日々の政務が滞ると、、、。」
「上奏なんか貯めておけよ。どうせ大した内容じゃないぞ。」
皇帝は不思議そうな顔で、梅長蘇を見た。
すると、しれっとよそを向いて、梅長蘇が言った。
「、、昨晩のうちから、上奏は私が内容を見ておいた。
景琰、、太医も脈を診きれなかったのだ。
恐らく重篤では無いが、ここ暫く、顔色が良くない。風邪をひいた折り、早く休めば良いのに、無理をして遅くまで、政務をしていただろう?。体のどこかに影響が出ているのは、分かっていたのだ。
太医頼りだったが、太医は見抜けなかった。だから、私はこの者に賭けたのだ。」
二人共、悪戯に言っている訳では無い。皇帝の身体を案じているのだ。
「、、、、分かった、、、、言う通りにしよう。
今日一日、政務は休む。その様に手配せよ。
だが、私が病だと、言ってはならん。今日は、書を読む為に、一日養居殿に籠ると言っておけ。誰も通すな。」
「面会やら、、、面倒だからだろ?。」
少し黙ってろ、と、皇帝が梅長蘇を、本気で睨んで、目配せをする。
「、、プッ。」
また長蘇が吹き出している。
侍医が平伏し、太監は恭しく賜った。
たが果たして、侍医は腰が抜けて、立てなかった。
太監二人に支えられて、漸く、養居殿から退出したのだ。

「本当に腰が抜けていたな、、。」
長蘇と二人きりになり、皇帝が呆れたように言った。
「景琰の声は通るからな、初めて聞く者には、三割増で恐ろしく聞こえるのだ。」
「あの者を少し取り立ててやろう。腰を抜かしても、自分の主張を通すとは、見上げたものだ。」