泥沼に沈む身
「君は、私を好きだと言った。それも冗談じゃなく、真剣だった。だったら、その真剣さを、冗談や、その場限りの判断で済ませてはいけないと思ったんだ」
「……」
「それが、お前を傷つけたのなら、私は謝るよ。すまない」
太子はそう言うと、ぺこりと頭を下げた。それを見たら、僕は、何も責めることができなくなる。
「……もう、別に良いです。僕が勝手に傷ついていただけですから。全部なかったことにしてください」
全部なかったことに。一ヶ月間僕が考え続けてきた全てだった。
告白さえしなかったら、今までどおりの関係でいられた。無視されることも、会えないこともなかったのに。
しかし、太子は「それは困る」と言った。
「なぜですか。もう、会いたくないということですか?」
「ばか、ちがうよ。なんのために、この一ヶ月間、楽しくもない仕事に日々を費やしたと思ってるんだ」
思わず眉をひそめた僕にお構いなしに、太子は「一か月色々考えてたんだ」と言った。
「一か月色々なことを考えて、分からないことが一杯増えた。例えば、お前の気持ちも100パーセントわかることなんてないだろうし、私の気持ちも、妹子には分かりはしない」
ちらりとこちらを窺うように見た彼の視線は、まるで叱られないかとおびえる子供の目のように思えた。僕は頷く。その頷きを確認すると、太子は僕の瞳を見た。
「でも、その代わり、分かったことが一つあるんだ」
太子は、静かに僕に手を差し出した。
「お前がいないと、私は寂しい」
それは、太子なりの答えだった。一か月、後悔もした、怒りも湧いた。けれど、その根本にある感情は、太子に会えなくて寂しいという感情ではなかったか。
僕と、同じ感情で、この男は目の前に現れ、手を差し出した。
それは、僕を救いあげるための手でもあり、僕を泥沼に引きずり込もうとする手でもあるように思えた。泥沼に先に入ったのは、どちらかなんて分からなかった。
「……遅いですよ、太子」
そう言って僕は笑う。手を握る。政治上の同盟国に対して握る握手のようなもののように感じたが、手のぬくもりは、彼がそこに存在するという何よりの証拠であった。
「うるさい、私は大器晩成型なのだ」
意味のわからないことを言って、太子は僕に笑った。
一カ月ぶりに見た、彼の心からの笑みだった。