章と雪
「誰に怒られる?、父上か?。平旌じゃあるまいし。こんな時の為に、日頃、真面目にしてるんだ。たまの不真面目くらい、皆、大目に見るさ。
軍務だって、突然、私が休んでも、大丈夫な様にしてあるんだ。」
確かに、兄弟が同じ事をしても、平旌はただ怒られるばかりだが、平章は、『何か事情があったのだ』と思われて、咎められない。
普通そうなれば、弟の平旌はいじけるものだが、平旌ですら、『兄に何かあったのではないか』と心配をするのだ。
平章は堅物なのでは無い。軍という場所が性に合っていて、更に鷹揚(おうよう)に、楽しむ事も知っている。
「えっ、、、でも、、、。」
「ん?、何が心配?。私を唆(そそのか)して、遊びに連れ出す悪妻と言われるのが怖い?。、、、それに、、ぷっ、男乗りで乗馬しても、裾の心配をしなくていい衣なのに?。今すぐ出られるじゃないか。」
「、、あっ、、これは、、、たまたまよ、たまたま。」
たまたまじゃないのを知っている平章は、くすくすと、笑いが止まらない。
「もう、平章哥哥なんて嫌い!!!。」
「ん?、私が嫌いか?。」
笑いながら平章が聞く。
「、、、もぅっ、、、、、、大好きよ。」
「どうする?、悪妻になる覚悟はあるか?、それとも諦めて、父上達と夕餉を共にする?。」
「行く!!、行くわ!!!、もちろん行くわよ!!!!。」
「ふふ、、、また、誰か呼びに来ないうちに、さっさと行こう。」
「うん。」
しおらしい麗人も良いが、平章は久々に、浅雪の心からの笑顔を見た気がした。
軍営に戻れば、きっとまた数日、王府には帰れない。
数日ならば、まだいい、、。
せめて軍務から解かれた時くらい、浅雪を独り占めにしたい。
平章は浅雪の手を取り、二人で馬屋の方に駆けてゆく。
去り際に、東青に目配せをする。
東青はその場で拱手して、二人を見送った。
二人の姿が見えなくなると、東青は踵を返し、東院を後にしようと歩き出す。若い夫婦が、両親との夕餉の時間を、過ごせなくなった事を、伝えに行かねばならない。
ところが東青は、長林王の主室に向かう回廊で、なんと、長林王に出くわした。
長林王はそこに暫く立って、東院の様子を見ていたようだった。
慌てて東青が拱手をする。
長林王は、『挨拶はよい』と、右手を上げて、東青の拱手を解いてやる。
長林王は、ここから世子夫妻と東青が、一緒に居たのを、見ていた筈だ。
『世子夫妻は居なかった』という理由は、もう付けられない。
顔色を変えないでいたつもりだが、東青は、内心、困っていた。
言葉を選ばないと、親子の間に溝を入れかねない。
東青は、言うべき言葉が、何一つ見つからなかった。
「平章達は、出かけたか。」
長林王が呟いた。
「はい。」
長林王の言葉には、怒りも寂しさも感じ取れなかった。だから東青も、素直に返事が出来た。
「東青、軍営に誰か遣わし、『世子は、私に私用を頼まれ、明日の軍務は休む』と伝えよ。」
「はい。」
長林王は、優しげな微笑みを、東青に向け、
「お前も、今夜は世子の護衛をせずとも良い。あの二人に護衛など要らぬ。」
「は?、、はい。」
ふふふ、、と笑って、長林王は主室の方に去っていった。
長林王は、平章が軍にかかり切りで、浅雪が、一人王府で、寂しい思いをしているのではないかと、気がかりだったのだ。
嘗て長林王も、若い折、浅雪の伯父 蒙摯に、武術や戦術、そして軍を率いる心得などの、手ほどきを受けた。
浅雪は、その蒙家から嫁いだ、大切な嫁なのだ。
若くして嫁に来て、戸惑いも多いだろう。
長林王妃は、心根の良い女子だが、嫁への心配り等は、些か不得手だった。
悪気がある訳では無く、若い二人の、仲睦まじい様を見ているのが、王妃は好きなのだ。王府に平章が帰ってくると、決まって、夕餉に誘うのだった。王妃の気持ちは、分からないでもない。
二人は、夕餉への誘いを、迷惑に感じている訳では無いだろが。毎日帰ってくるならばともかく、浅雪にとって、平章と二人だけの時間は貴重で、どれ程あっても足りない位だろう。
少しでも、二人きりの刻を過ごせるようにと、長林王は、『小宵は夕餉を共にせずとも良い』、そう言いに来たのだ。
王妃に聞けば、既に東青に言伝たと言うし、それを侍女に伝えに行かせ、取り消させては、二転三転する話の、どれが本当か分からなくなる。
長林王もまた、暫く平章の顔を見ていない。様子見がてら、その事を伝えに、東院に向かったのだ。
東院から、若い二人が出掛ける様を見て、長林王は、些か安堵した。
平章の性が、軍に合っているのは分かっていて、平章自身も、国内の政と軍部、長林軍との均衡の為に、奔走している。長林王が片腕として、最も頼りにしている存在であった。
己の責任と、使命にのめり込むがあまり、新妻を放ったらかしにしては、あまりに浅雪が可哀想であった。
長林王自身、嘗て、王妃に寂しい思いをさせた。仕方が無い事と、王妃は理解し、決して長林王を責めたりはしなかったが、後になって可哀想な事をしたと、長林王の悔やむ心は消えなかった。
若い刻は、戻っては来ないのだ。
平章は、ちゃんと浅雪の心を知っている。
あの二人は、大丈夫だろう。
程なく、蹄の音が聞こえ、次第に遠のいて行く。
世間の家の中では、嫁が息子を取ったとか、夫や息子の素行が悪いとか、、そのようなものが無くとも、夫婦の仲が冷めきって、羅刹の様な家庭もあるのだ。
長林王は、自分の帰るこの家が、温かみのある、恵まれた家庭である事を、しみじみと感じていた。
一日、朝議に出て、困難に疲弊した心も、ここに戻れば癒される。
王府も皇宮も、赤々とした落陽に照らされて、金陵の夕景を織り成している。
掖幽庭の夕景も、王府の夕景も同じだ。
一日を無事に終えたのだ。
掖幽庭ではないここには、長林王の守る者がいる。
歳を経て、大切な者が増えていった。
何よりも、幸せな事だった。
陽は間もなく落ち、夕闇が降りてくるだろう。
王妃と平旌と、夕餉を囲まねばならぬ。
「さて、平旌でも叱ってやるか。」
長林王は幸せの場所へと、足を向けた。
───────糸冬────────