子羊二匹
今頃アイオリアは獅子宮で寒気を感じながらくしゃみをしているに違いない。
「斯様な与太話はどうでもよいが」
空になったカップを机の上に置くシオン。
ムウの纏っている空気が、微妙に変わる。
「やはり貴鬼に馬鹿と言われたのが辛いか」
「……そうですねぇ」
どうもムウの口調ははっきりしない。
「私はシオン様の修行がどんなに辛くとも、シオン様に馬鹿と申し上げる事はありませんでした。
修行中の私にとって、シオン様の存在はあまりにも大きかったので」
修行では命を落とす『かも知れない』が、シオンに見捨てられれば、『確実に死ぬ』。
幼いムウはそう考え、必死に、必死に、シオンの厳しい修行についてきた。
だがシオンは厳しい師ではあったけれども、優しい師でもあった。
ジャミールでの夜。
師は今のように寝台に自分を乗せると、色々な話をしてくれた。
聖闘士の事、聖域の事、前の聖戦の事、小宇宙の事、歴史の事、世の中の事、自然の事、宇宙の事。
それから世界中の物語。200年も生きていると、様々な事件を耳にする。
シオンはそれを、毎晩ムウに語って聞かせた。
『シオン様、今日はどんなお話ですか?』
『そうだな……今宵は菓子の家の話でもするか』
グリム童話、アンデルセン。
子供向けの物語も、シオンは語って聞かせた。
ムウが眠りにつくと、シオンも灯り……ろうそくだが……を消し、ムウと同じ寝台で横になる。
常に師の気配を感じ、ムウは眠った。
修行中は厳しすぎるほど厳しい師だが、自分の横で眠るシオンの小宇宙は、いつも温かかった。
自分を守り、慈しむようなシオンの小宇宙が、ムウには心地よかった。
「……シオン様……」
夜中に目が覚めてしまった時でも、師はいつも隣に居た。
自分が起き出してしまうと、その気配を察してかシオンもパッと目を開け、
「どうした?」
と、暗がりの中から今と変わらぬ口調で尋ねる。
心から自分を愛し、心配してくれる口調。
ムウは物心ついた時には、既にシオンの元に居た。
どういう経緯かはシオンはなかなか話してくれなかったが、ある雑兵が口を滑らせて語ったところによれば、
赤ん坊の頃聖衣の墓場近くの森に捨てられていたらしい。
丁度聖衣の引き上げ作業中だったシオンが見つけ、そのまま引き取ったというわけだ。
『だから、教皇にとってはムウ様は自分の子供も同様さ。何せ、おむつが取れる前から育てたんだからな』
知らなかった。自分は両親に捨てられていたなんて。
知らなかった。血も繋がっていない自分を、シオンはそんな幼い頃から育てていてくれていたなんて。
「……シオン様……」
大恩ある師。
幼いムウの全てだった存在。
それが、シオンだった。
それに比べて自分は何なのだろうか。
貴鬼にとって、自分は馬鹿と言われてしまう程度の存在なのだろうか。
ムウも懸命に貴鬼を育てたつもりだったのに……。
それが、今夜のムウの心を落ち込ませる。
シオンはそんな弟子に向かってジャブを打ち込む。
「ムウ、お前は忘れておるやも知れぬが、お前も私に『馬鹿』と申した事があるのだぞ」
「本当ですか?」
心底驚いた表情のムウ。眉と同じくらいに目も丸くなっている。
シオンは意地の悪い笑いを浮かべ、ムウが赤面したくなるような昔話を語り出す。
「お前が牡羊座の聖衣を拝領する前だったか。私も教皇職にあった故、時にはお前を残し、聖域に赴かねばならぬ場合もあった。
するとお前は私の法衣の裾をつかんだままワンワン泣いてな、
『シオン様のバカー!行ってしまうなんて、私を一人にするなんて、ひどいです!』と大声でわめき散らすのだ。
私とて、修行中の幼いお前を残し聖域に赴くのは文字通り後ろ髪引かれる思いではあったが、
聖域にも顔を出さぬと執務が片付かぬのでな。あの頃はよく風呂敷残業をしたものよ」
言葉の内容とは裏腹に、そう語るシオンの表情は明るい。
心底ムウが可愛くて仕方ないといった様子である。
「師弟の形も多種あるものよ。私とお前の在り方と、お前と貴鬼の在り方は違う。それ故、あまり気に病むでない。
それに……お前も聞いておったろう?貴鬼は十分にお前への暴言を悔いておるよ。
故にムウ、弟子に馬鹿と言われても落ち込むでない。人間誰しも、口が滑る事はある」
シオンはポンポンとムウの頭を叩くと、
「お前も今宵はもう休み、少し頭を冷やせ。一晩眠れば、大分落ち着くであろうよ」
「シオン様」
師の行動をとがめるようなムウの口調。
「そう……子供のように頭をポンポン叩いたり撫でたりするのはおやめ下さい。私はもう、20歳の大人なのですよ」
その時のムウを同僚や他の聖闘士が見たら驚くであろう。
優美な笑みを絶やさず、常に冷静沈着なムウが、子供のように頬を赤く染めて抗議しているのだから。
シオンは子供をからかうような表情で、
「何を申しておる。20歳など私に比べればまだまだまだまだ子供よ」
「248歳と比べないで下さい」
だがこれ以上言い返したところで、口では師に勝てない。
ムウはフウ……と深く息を吐くと、寝間着の裾を捌いて寝台から立ち上がった。
「遅いので、私ももう休みます。おやすみなさい、シオン様」
「ああ、よい夢を」
「あの……シオン様」
ドアノブを握りつつ、ムウが小声で続ける。その語調はどこか、照れくさげである。
「今夜は話を聞いて下さってありがとうございました。少し気が楽になりました」
「そうか」
暗がりの中、シオンがほんのわずかに表情を緩めたのがわかる。
「修行に正解はあらぬ。お前はお前自身と貴鬼を信じ、己がよいと思える方法を採るがよい」
「はい、シオン様。おやすみなさい」
もう一度師に挨拶したムウは、ドアを開け階下の自分の寝室に戻る。
貴鬼のように、シオンの寝台で一緒に眠る歳ではない。
「まったく、色々と手のかかる弟子たちよ」
ぐいと伸びを一つしたシオンは法衣を衣紋掛けにかけると、布団に潜った。
体を横に向けると、孫弟子の穏やかな寝顔。
ああ、ムウにも斯様な頃があったな……と、弟子の幼かった寝顔を思い出す。
「彼奴ももう子供ではないのだな」
自分が聖域に戻ろうとすると、法衣の裾をつかんで大泣きしていたムウ。
それが今や弟子持ちの身である。
「いつまでも子供と思っておるのは、私のみやも知れぬな」
幼いムウの寝顔が、貴鬼の寝顔に重なる。
今宵は昔の夢を見そうだと一人つぶやくと、シオンは枕に頬を押し付け目を閉じた。